このところ、「オリエントの中の旧約史」として、メソポタミアやエジプトの歴史と旧約聖書の歴史の接触点に注目して聖書を読み直して説教の準備をしています。なかなか面白いです。
19世紀、考古学未発達の時代のドイツの聖書学は王国時代より前の聖書の記述はみな、王国時代以降の反映としてのフィクションだとしました。けれども、20世紀になって英米系の学者たちによるオリエント考古学の急速な発掘・進歩によって、族長時代・エジプト時代・カナン定着時代の記述の歴史性が類型学的に明らかにされてきました。
ドイツと英米系の研究のちがいは、ドイツ人の観念的な傾向と、アングロサクソンの実際的・常識的な傾向の違いが背景にあるようにも思われます。もうひとつは、誰かが書いていたのですが、ドイツは帝国主義競争に乗り遅れ、また戦争にも敗れて植民地を持たず、オリエント考古学で採掘すべき場というものを持たなかったので、聖書テキストの観念的な資料分析の世界に閉じこもるほかなかったのだとのことです。
今日の午前中は、ヨセフが、エジプトで宰相に抜擢された背景のヒクソス朝のことを少々調べました。読んでいる本は、マラマット、タドモール共著『ユダヤ民族史1』と、キッチン『古代オリエントと旧約聖書』。
二週前の説教準備で「発見(?)」したのは、アブラムの父テラが、息子の一人ハランが死んだ後にウルからユーフラテス川上流カランの地に一族を連れて移住したという記述の歴史的背景です。
紀元前2004年にウル第三王朝がエラム人(イラン高原の西端の民族)の侵攻によって滅亡しているのです。想像をたくましくすれば、テラの息子、アブラムの弟ハランはエラム人との戦いで戦死したのかもしれません。そして長年繁栄してきた都ウルには住めなくなって、傷心のうちにテラは一族を連れてユーフラテス川を上流へと上って行ったのではないか。