律法のとらえ方の間違いとして、律法主義と無律法主義があります。
律法主義とは、律法を守ることによって、神の前に自分の義を立てようとする態度です。そうすると、律法の文言につじつまを合わせるために、往々にして形式的に守ったことにしなければ、という計らいが生じます。そうすると、律法のスピリットである神を愛し隣人を愛することから遠ざかった偽善に陥ることになります。主イエスは、同時代のパリサイ人、律法学者たちの中のある人々がそのような過ちに陥っていることを指摘しました。
他方、無律法主義とは、律法はモーセの時代のものであって新約の時代の私たちには関係ないという考え方で、これも間違いです。「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:18‐20)
イエス様は山上の説教で「心の貧しい者は幸いです」に始まる祝福のことばで、恵みによる救いを教え、それを前提とした上で、恵みによって救われた人々の生き方を説いて行かれました。それは要約すれば、愛によって律法の要求を十二分に満たす生き方です。律法が1ミリオン行けと言ったら、愛によって2ミリオン行くのがキリスト者の生き方です。
使徒パウロも、恵みによる救いとしての信仰義認を解いてきたあと、キリスト者の生き方について次のように言っています。それは無律法主義とは程遠いものです。「すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない』という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」(ローマ12:7‐10)パウロも主イエスと同じく、愛によって律法の要求を十二分に満たす生き方を求めているのです。