苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

永遠のいのちを得るには

マタイ19:13−30


  19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。 19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」 19:15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。

 ユダヤ地方に入ってパリサイ派の律法学者たちに結婚と家庭の尊さについて話されたところに、親たちが子どもたちへの祝福を求めてイエス様のところにやってきました。イエス様に手を置いて祈ってもらいたくて来たのです。弟子たちは、子どもたちを追い返そうとしますが、イエス様は例のごとく子どもたちに対しては、えこひいきかと思われるほどにやさしく祝福を与え、「天の御国はこのような者たちの国なのだ」と仰せになります。また、大人ほどに知恵も経験もなく、その分、ごまかしや偽善のない子どもたちは、イエス様から「神様は君たちを愛している。天の御国は贈り物だよ、さあ受け取りなさい」といえば素直に受け取ります。この出来事は直後の金持ちの青年と主イエスの対話とは対照的で、その謎を解くためのヒントを提供しています。

1 若きエリート

 次にひとりの人が主イエスのもとにやって来て、単刀直入に主イエスに質問しました。

  19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 この人について、他の福音書の平行記事が解説しているところを見ると、彼は金持ちの青年であり、職業は役人です。後の問答を見れば、彼が育ったのは敬虔なユダヤ人の家庭で、幼いころから律法教育を受けてきたことがわかりますし、彼自身品行方正な性格でもあったようです。世間的に言えば、まったく非の打ち所の無い理想的な青年です。今の日本の東京あたりの言い方でいえば、田園調布に屋敷のあるお金持ちの家に育ち、麻布か開成か武蔵を出て東大法学部をトップで卒業した財務省の若きキャリア官僚であり、しかも、会って話をしてみれば鼻持ちならないエリートということはなく、誠実に人生を考えているといった感じの青年・・・そういうイメージです。
 しかし、この青年には日本のエリートは抱えないであろう悩みがありました。それは「永遠のいのちを得るには、どのようなことをすればよいのか?」という霊的な問題でした。彼は立派な律法の教育も受けてきたようですが、それでも「永遠のいのち」を自分は持っているとは信じられず深い悩みのなかにありました。日々律法を逐一守ろうと生きてはいるのだけれど足りなさを感じるのです。以前はそんなことを感じたことはなかったのですが、たぶん彼がイエスを信じる素朴で無学な人々のうちに、自分の持っていない「永遠のいのち」の輝きを見たからではないかと思います。私は回心直前のアウグスティヌスが友人に向かって言ったことばを思い出しました。彼は「どうして僕たちはこんな目にあわなければならないのだろう。聞いたかい。学もない連中が立ち上がって、天国をかっぱらってしまったんだよ。僕たちは、なまじ学がありながら心がないから、どうだ、肉と血の中を転げまわっている。」(Conf.8-8-19)  聖書でいうと、コリント第一1:26−28です。「1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」
彼がイエス様の最後の三度目の都上りにあたってようやくイエス様に質問しにやって来たのを見ると、青年はイエス様のところに質問にやってくるのに相当抵抗感があったのだろうと思われます。ですが、ついに彼も永遠のいのちの秘訣を求めてやってきました。

2 十戒を守りなさい・・・

 「永遠のいのちを得るにはなにをすればよいのですか」という問いに対して、主イエスはなんとお答えになるでしょうか?つい先ほどの、「天の御国はこの子どもたちの国なのです」というイエス様のことばから言えば、「あなたに必要なのは、子どものように素直に、神からの賜物である永遠のいのちを受け取ることだよ」というお答えになるはずです。ところが、主イエスは意外な返答をなさいます。

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 青年は、律法とは別になにか新しい戒めや秘訣を主イエスが教えているのだろうと思っていたのでしょう。しかし、イエス様は「律法の一点一画も廃れることはない」とおっしゃいました。旧約聖書の神は、御子イエスが「天の父」と呼ばれたお方です。このお方が善とされたこと以外になにか別の善があるわけはないのです。ですから、主イエスは彼に「十戒の後半部、隣人愛を実践できるものなら、実行しなさい」とおっしゃいました。そうすればいのちに入ることができる、と。
 すると青年は、がっかりしたように応じるのです。

19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 「ああ、モーセ十戒ですか。十戒ならば、物心つく前から、自分の名を覚える前から両親に教えられ間違いなく行ってきましたよ。そんな初歩の教えではなく、もっと何か深遠な教えはないのですか?」というニュアンスです。敬虔な両親の家庭に生まれ育ち、律法の教育を受け、生来の性格もきまじめで、頭脳も明晰で幼いころから挫折を知らずに生きてきたこの青年にとっては、十戒を守って生活をするというのは当たり前のことであったのでしょう。自分は十戒をずっと守って生活をしてきたと自己満足していたのです。

 私はこの青年の記事を読むと若き日のサウロ、後の使徒パウロのことを彷彿とさせられます。パウロはピリピ書のなかで回心する前の自分の経歴について次のように語っています。

「3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。 3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、 3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」

 またサウロは生まれながらローマ市民権をもつ裕福な家庭に生まれ、当時、最高の学者であったガマリエルの門下で俊才の名をほしいままにし、イスラエルの指導者となる青年として将来を嘱望されていました。「律法による義についてならば非難されるところはない」という自負さえあったのです。聖書には、この青年の役人がサウロその人であったとは書かれていませんが、プロフィールはずいぶんと似ています。

3 完全になりたいなら

 高潔な生き方を目指して正義感に満ちたこの青年を、主イエスはいつくしみ深いまなざしをもってごらんになったと平行記事にあります(マルコ10:21)。神の前に完全な生き方を目指して精進してきたこの毛並みの良い青年のこれまでの人生の姿が主イエスには手に取るように見えたのでしょう。もし人が、完全な審判者であられる神の前に、人が自分の努力と精進によって、永遠のいのちを獲得することを目指すならば、完全でなければなりません。完全な神の前に完全な正義の行いをなしえてこそ、人は永遠のいのちをいただくことができます。そこで主イエスは彼に言い放たれました。
19:21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めについて、青年は「そのようなことは守ってきました」と言いました。「君の周りには、夏も冬も昼も夜も一枚の服だけで過ごしている人々、今晩の食事の心配をしなければならない貧しい人たちが何千人もいるだろう。君には大きな召使たちを雇っている家屋敷もあれば、豊かな畑もあり、倉には金も銀もたくさん眠っている。もし、君が君自身を愛するように、彼ら一人ひとりを愛しているというならば、彼らにその家屋敷や畑や金庫に眠っているお金をみな配ってやりなさい。そうすれば、君は神の隣人愛の戒めを完全に守ったと言える。」・・・主イエスが言わんとすることはこういうことです。

 19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 彼は無論貧しい人々のために、ほどほどの寄付や施しはしてきたに違いありません。青年は、「自分のできるかぎりの範囲で」律法を行い、それを守っているつもりになっていたのでした。しかし、真実な意味で「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という命令を守っているのかと問われたとき、彼は自分がいかに富に執着している人間であり、これまで貧しい人々を見捨ててきた守銭奴なのだという事実を認識することになったのでした。自分は貪りの罪を犯していることを彼は自覚させられたのです。守銭奴、それは、彼がもっとも軽蔑してきた取税人を非難するために口にしたことばでしたが、実は自分自身がそういう者なのだということに初めて気づいたのでした。
 そうして彼は悲しみながら主イエスのもとを去って行きました。

4 神にできないことはない

 青年が肩を落として去って行くのを眺めながら、主イエスは嘆いておっしゃいました。

  19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。 19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 主イエスの御眼から見ると、人が富に執着していることが不思議で、嘆かわしくて仕方なかったでしょう。人はどんなに富を持っていても、最後の審判のときには何一つ携えて神の前に出ることはできません。永遠のいのちとこの世の富とを天秤にかけるならば、世の富が何億タラントあろうと、その皿は跳ね上がってしまうほど軽いものです。それにも拘わらず、人は永遠の命でなく、目の前にある富に執着して滅びをあえて選び取ってしまうとはなんと奇妙なことだろう、と主イエスは嘆かずにはいられないのです。「ああ、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがずっとやさしい」
 弟子たちは驚いて言います。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
そうなのです。人は自らの善い行い、たとえば施しをもって、神の前に自分を完全なものとして自分を救おうとするならば、誰一人救いようがありません。しかし、人がお手上げになったところで、神の業が始まるのです。

19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

神の前に己の罪と無力を認めて、白旗を掲げて主にあわれみを求めること、それが唯一の救いの道なのです。「神の国は、この子どもたちのような者の国なのです」と主イエスはおっしゃいました。「神様、ごめんなさい。私は、自分のことしか愛することのできない罪人です。貧しい人たちを自分のように愛すべきだと教わりながら、それを実行する愛がないのです。こんな罪人を神様あわれんでください。」このようにへりくだる者に、神様はあわれみをかけてくださいます。そうして、神の前に自分の罪を認め、神様をふり仰ぐ人になると、やがて富への執着、金銭の奴隷状態から解放されて、富を支配して貧しい人々のためにも、自由な心でこれを活用することができるようになります。あのザアカイのように。

5 先の者があとになり・・・どこまでも恵み

 主イエスのことばを聴いて、ペテロはイエスに答えて胸を張って言いました。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」すると、主イエスはにっこりしておっしゃいます。
「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

 「ペテロ、君たちが何もかも捨ててわたしにしたがってくることができたことは幸いなことだった。事実、わたしにしたがってくることはそれほどの価値あることであるからだ。けれども、自分が神の国のために何もかも捨ててきたことを誇り、自分は先頭を走っていると思って傲慢にならないように注意しなさい。今は肩を落として去っていった、あの青年がもしかすると、君を追い越すことがあるかもしれない。」主はそのようにおっしゃるのです。
もし、あなたが主のためにすべてを捨ててしたがうことができたら、それは誇るべきことではなく、主に感謝すべきことです。そのように恵みを悟らせてくださったのは、主ご自身であるからです。もし、あなたが貧しい人々のために、自分の手に神が託してくださった富を施すことができたら、誇るのではなく主に感謝することです。そのような愛のこころをあなたのうちに与えてくださったのは、主の恵みだからです。キリスト者は自分の行いにかんする誇りによってではなく、恵みによって生きていくのです。神の国、永遠のいのちは、罪人に対する神からの贈り物なのです。だから、もし主のために少しでも良いことが出来たとしたら、誇るのではなく、ただ主に感謝し、栄光をお返しして生きていきましょう。