苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

同盟教団信仰告白06   神のかたち

「はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。」(日本同盟基督教団信仰告白4a)

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』
 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1章26−28節)


「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ書1章15、16節)



1.人間観の重要性

 
(1)人間とはなにか?
 昔からいろいろな人が、「人間とはなんであるのか?」と考えてきました。アリストテレスは「人間はポリス動物である」と言い、パスカルは「人間はひとくきの葦である。しかし、それは考える葦である。」と言いました。また、ヨーロッパの啓蒙主義時代のあるド・ラ・メトリという思想家は「人間は機械である」と言いました。また、進化論の観点からいえば「人間は生物進化の頂点にいる動物だ」と言い、DNAの解析が進んだ現代では、「人間とは遺伝子の束である」などと言います。
 どういう人間観を持つかと言うことは大事なことです。なぜなら、人は自分が何者であるかと考えるところにしたがって振舞うからです。たとえば、「人間は機械である」という考え方は相当浸透した人間観であり、その影響で、近現代人は人間をあたかも機械のように扱うようになりました。その積極面から言えば、それ以前、刃物を入れるべきではないとされていた人間のからだにも、メスを入れて外科手術をしたり、内臓移植という部品交換することができるようになりました。けれども、他方では、「人間は機械だ」という考え方は、人間の価値は仕事量といったデータのみで価値を測定することができるという考え方をもたらし、その尊厳を見失わせてしまいました。
 

(2)人間の偉大さと卑小さ

 聖書の人間観の特徴は、人間を創造主である神との関係において捉えている点です。神との関係において人を捉える人間観のみが、「人間とは何者なのか」ということを正しく私たちに教えるものです。
 創世記1章は、人のみが「神のかたち」に創造されたことを教えています。人間は神に似た者として造られた点で、尊い存在なのです。しかし、同時に、人間は被造物にすぎないという点では、造り主の前でほかの被造物と同じくちっぽけな存在なのです。人間の偉大さと卑小さの両面をとらえることが重要です。
 神様に背を向けた近代人は、科学文明の力を手に入れ、自らを偉大な者として思い上がり、その力で自然を征服して行きました。が、その結果、核兵器を造って自分自身を滅ぼそうとしていますし、あるいは、人間自身の生存の基盤である環境を破壊して今や危機的状況にあります。他方で、神に背を向けた近代人は、人間は他の動物と何も違ったところはないのだから、種の保存の本能にしたがって生きていればよいのだと考えたり、あるいは人間は精巧なコンピュータを備えた機械にすぎないように考えるようになりました。そうして生きる意味も道徳も見失って、自らを傷つけ、家庭と社会を破壊しています。
人間の偉大さのみを知ることは有害です。また、人間の卑小さのみを知ることも有害なことです。しかし、人間の偉大さと卑小さの両方を知ることは有益なことです。聖書は、人間が「神のかたち」に造られていることを根拠として、互いに尊びあうべきだと教えています。同時に、聖書は、人間は神の前に被造物なのだから謙遜に礼拝と感謝の生活をすべきであると教えています。


2.「神のかたちに創造され」

 では、「神のかたち」とは何を意味しているのでしょうか。聖書から3点、学んでおきましょう。

(1)「神のかたち」とは神の御子(第二位格)である
 コロサイ書によれば、「神のかたち」とは御子つまり聖三位一体の第二位格を意味しています。パウロは、万物の創造について語る文脈のなかで、御子が「神のかたち」であり、万物は御子にあって造られたと述べています。
 「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ書1章15、16節)
 しかも、ここで用いられている「神のかたち」を意味するギリシャ語「エイコーン・トゥ・セウー」は、新約聖書が書かれた当時広く用いられていた七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳旧約聖書の創世記1章の「神のかたち」で用いられている語と同じですから、使徒パウロが、創世記1章26,27節を意識していたことは確かです。コロサイ書は、御子が人間の創造におけるモデルであると教えているのです。このことは、古代教父エイレナイオス、オリゲネスも教えています。
 そして、ヘブル語本文を直訳すれば、「万物は御子にあって造られた」「万物は御子によって造られ、御子のために造られた」とあります。御子は創造において、父なる神と被造物との仲保の役割を果たしていることがわかります。そして、人間は、本来、御子つまり「神のかたち」において(ヘブル語:「ベ」)創造された者です。
 そういうわけですから、新改訳聖書第三版の創世記1章27節は「神は人をご自身のかたちとして創造された」と訳しているのですが、コロサイ書から考えると、むしろここは「神のかたちにおいて(ヘブル語:ベ)創造された」と訳したほうがよいところです。英語訳聖書ではほとんどin the imageと訳しています。人間は直接的な意味で「神のかたち」なのではなく、仲保者である御子において、神に似た者として創造されたのです。御子は、救いにおいてばかりでなく、創造においても仲保の役割を果たされたのです。いやむしろ、創造において仲保者でいらっしゃるから、救いにおいて仲保者となられたのです。
 人は、本来、御子に似た者として造られたものだからこそ、後に人間が神に背いて滅ぶべき者となってしまったとき、御子は人なって、キリストとしてこの世に来てくださり(受肉)、人間の代表として罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして人間を「神のかたち」である御子に似た者として新しく創造し、完成してくださるのです(信仰告白第6項、第8項参照)。
 

(2)「神のかたち」は「知・義・聖」である
 エペソ書とコロサイ書は、キリストにあってなされる人間における「神のかたち」の再創造について、次のように教えています。
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)
「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)
 この箇所から逆算すると、堕落によって毀損してしまった「神のかたち」には、「知」と「義」と「聖」という三つの側面があったことがわかります。一応、知とは知性、義とは道徳性、聖とは宗教性を意味しているということができましょう。御子に似た者として造られた本来の人間は、神の御旨を悟る知性と、神の御旨にしたがって被造物を治める王に必要な道徳性と、世界のためにとりなし祈る祭司としての宗教性とを備えていたということです。神様に祈り、神の御旨を探り、そして神の御心にそって世界を治めるのが人間の務めです。神様は人間に知と義と聖を与えることによって、「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章−28節)という任務を果たすことが出来るようにしてくださいました。
「支配する」ということばに抵抗を感じる人が多くいますが、その内容は神から委ねられた神の作品である世界を、暴君でなく善い王として適切に治めることを意味しています。これを文化命令と言います。文化命令は創世記第二章では次のよう表現されています。

「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)

 神が人間に命じた被造物の支配とは、これを「耕し」かつ「守る」ことを意味しています。「耕す(アーバード)」ということばは、しもべ(エベド)と同じ語根のことばですから、大地の世話をするということです。また、「守る」とは被造物世界をしっかりと管理して滅びることがないように守ることを意味しているといえるでしょう。ですから、神様が人間に被造物を支配しなさいとご命令をくださったのは、被造物を暴君的に奪い取るのではなくて、神の代理である正しい王として、利用しつつ、これを保護しなさいという意味です。


(3)互いに愛し合う共同体

 「神のかたち」の理解としてもう一点挙げておきます。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)

 御子イエスに似た者として、また、知と義と聖を与えられた者として、また、人間は互いに愛し合う共同体として造られました。三位一体の神は、父と子と聖霊が互いに愛し合う共同体的な神でいらっしゃいますので、このお方に似たものとして造られた私たち人間もまた、孤立して生きているわけではなく、互いに愛し合い仕え合う共同体的な存在であるということです。「人間」ということば自体、「人の間」と書くように、一人きりで生きられるものではありません。互いに活かし活かされる関係のなかで、生きているのです。
 主イエスは人間に与えられた多くの戒めのなかで最もたいせつな戒めは何ですかと質問されたとき、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することである、とお答えになりました。人は、本来、「神のかたち」である御子に似た者として造られたので、キリスト信仰というのはひとりひとりを大切にしますが、それは利己主義・個人主義をよいというのではなく、共同体的な信仰なのです。キリスト者の信仰は、イエス・キリストを長子とした神の家族の中で私たちは霊的に育まれていくものなのです。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。」(1ヨハネ4:20,21)教会は、愛の道場です。
人間は、神に愛されて自分の存在の尊さを知り、神の愛に活かされて隣人を愛して生きるように本来造られました。ですから、隣人を憎むときには人はなにより自分自身を苦しめてしまいます。創造者の目的から外れた使い方をしているからです。主はわたしたちにキリストにあって愛を表してくださいました。神の愛を知って、私たちは愛することを少しずつ学んで成長していくのです。

「 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」1ヨハネ4章

 

結び
 私たち一人一人は、神のかけがえのない作品です。神様は私たちを、御子キリストに似た者として造ってくださいました。あなたの身近な隣人もまた、神様のかけがえのない作品です。このことを日々、忘れないで生きてまいりましょう。