苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

☆「神のかたち」であるキリスト

(この文章は「福音主義神学」41号掲載されたものです。自分としては、聖書理解と信仰生活にとって、たいせつで有効な論文だと思っていますので、読んでいただけたらうれしいです。すでにブログで似たことは何度か書いているんですけれども、これが決定版ということです。
 小海キリスト教会のホームページの「牧師の書斎」に載せたのですが、どうもやり方がまちがっているのか、開けないので、ここに置いておきます。ずっと更新しないうちに、ホームページの更新のしかたをすっかり忘れてしまいました。
 ただ、こちらではフォントが足りないので、聖書言語がへんてこな表示になっています。それから、脚注は省略されています。)


   (書斎の窓から見える里山のもみじ)

      <アウトライン>
序 


1.コロサイ書による創世記1章26、27節の「神のかたち」理解
(1)封じられてきた「神のかたち」キリスト論
(2)コロサイ書による「神のかたち」の解明
(3)創世記1:27の邦訳について


2.「見えない神のかたち」――神の計画のキリスト論的解釈の必然性


3.「神のかたち」なる御子を軸として神の計画全体を展望する
(1) 人間の尊厳のリアリティ
(2)キリストの受肉の理解
(3)聖化の理解
(4)「神のかたち」と教会の職務
(5)予定から終末まで


結論 


 復活の日の午後、エマオ途上で、主イエスは二人の弟子にモーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた。すると、それまで落胆し冷えきっていた弟子たちの心はうちに熱く燃やされた。神のご計画全体の中にキリストの姿を見出して読むことは、どのようにして可能なのか。もし、実際に、そのように読むことができたならば、我々の心にも燃えるものをいただけるのではないか。本稿は、コロサイ書1章における創世記1章の「神のかたち」理解を出発点として、キリストを中心として神の計画全体の理解に展望を開き、心燃やされ宣教に益するようにと書かれた。



1.コロサイ書による創世記1章26、27節の「神のかたち」理解


(1)封じられてきた「神のかたち」キリスト論


創世記1章26,27節の人間創造の記事における「神のかたち」とは何を意味するのかについては、古代から多くの議論がなされてきた。創世記1章26節では、「われわれのかたちとして、われわれに似せて(Wnte_Wmd>Ki WnmeÞl.c;B.)」と、ツェレムとデムートという二つの言葉が用いられ、七十人訳聖書ではツェレムはエイコーンeivkw.n、デムートはホモイオーシスo`moi,wsijと訳され 、ウルガタではツェレムはimago、デムートはsimilitudoと訳され 、英語訳では一般にツェレムはimage、デムートはlikenessと訳されてきた 。本稿では引用文を除きツェレムを「かたち」、デムートを「似姿」と訳すことにする。
オリゲネス(185-254AD)は、『諸原理について』第三巻で創世記1章26節のこれら二つのことばを区別して解釈している。すなわち、神が26節で「我々のかたち、我々の似姿にしたがって人を造ろう」と言いながら、27節で「神のかたちに従って造り」と述べて、似姿については沈黙しているのは、「人間が最初に創造されたときに、像(かたち)としての身分を与えられたが、似姿という完全さは完成の時まで留保されていることを示しているのにほかならない。(中略)像としての身分を与えられたことで、始めから完全になることの可能性が人間に与えられているが、人間は終わりの時になって初めて、わざを遂行することによって、完全な似姿を自ら仕上げるべきである 。」というのである。
オリゲネスが「神のかたち」について述べていることの中でさらに注目すべきことは、創世記1章における「神のかたち」とは御子であると述べていることである。「では、その像に似姿として人間が造られた神の像として、われらの救い主のほかに何があろう。この方こそ、『すべて造られたものに先立って生まれた方』(コロ1:15)であり、『神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ』(ヘブ1:3)と言われた方であり、自ら自身について『私は父のうちにおり、父は私の内におられる』(ヨハ14:10)、『私を見た者は父を見たのである』(ヨハ14:9)という方である。 」
エイレナイオス(130-200AD)もまた、オリゲネスとはやや異なる説明なのだが、創造における「神のかたち」は御子であると述べている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。 」またエイレナイオスは御子と聖霊を父なる神の両手に譬える独特な聖三位一体の理解に基づいて、御子を「かたち」に聖霊を「似姿」に関係付け、神はこの両手でもって人間を造られたとし、「かたち」は人間においては、肉体 ・理性・自由・自律性といった本性に見出されるという。他方、聖霊が与える「似姿」とは、肉体の救いを究極的に完成させる神の本性としての「不死性」を意味する 。このように、オリゲネスとエイレナイオスが共通して述べているのは、創世記1章における「神のかたち」は御子であるということと、創造における人間は未完成であって終わりの時に究極的な完成を見るということである。
ところが、アウグスティヌス(354-430AD)において「神のかたち・似姿」について、大きな理解の転換が訪れる。アウグスティヌスは、「かたち」と「似姿」の違いには関心を寄せず、むしろ「御父が御子のかたちにしたがって人間を造った」という説を批判して、神が「我々のかたちにおいて」と言われているゆえに、人は一つのペルソナによるのではなく三位一体のかたちに従って創造されたということを強調する 。アウグスティヌスがこのように強調しなければならなかったことには背景がある。「御父が御子のかたちにしたがって人間を造った」という理解の仕方では、「御子は御父に似ていないことになる 」のではないかという懸念があったからである。つまり、御子の神性が割引されて、御子は父と同質でなく、一段下の存在であるというアレイオス的「従属説」の異端に陥ることを警戒しているのである。
「少なくとも使徒以来、キリスト教史の中では、その教説によって千年もの間支配的であった人物は、アウグスティヌス以外にはない。 」とJ.ペリカンがいうように、アウグスティヌスの神学的権威がその後の教会において絶大であったため、御子が人間の創造における「神のかたち」であるという理解は、その後、長らく教会史のなかで封じられることになったと思われる。千年間どころか、事実上、アウグスティヌスは近代に至るまでカトリックプロテスタントを問わず西方教会の歴史的信仰に立つ者たちにとって巨大な権威である。そういうわけで、創世記1章の「神のかたち」は御子であるというオリゲネスやエイレナイオスの理解は、中世・近世を通じて封じられてしまった観がある。
中世のスコラ哲学においては、自然と恩寵の神学の枠に合わせて、自然的賜物としての理性と意志の力がツェレム、超自然的賜物として神によって付加された賜物がデムートであるとされるといった解釈上の変化はあるが 、御子こそ「神のかたち」であるとは教えられない。カルヴァンは 、創世記5章1節と同9章6節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する釈義的根拠は薄弱であるといったことは論じているが、御子が人間創造における範型としての「神のかたち」であるという理解は改革者にあっても忘れられたかのようである。
18世紀以降近代の啓蒙主義的な前提に立つ聖書学は、聖書の権威からも解放されているから、アウグスティヌス的権威からも解放された。しかし、近代聖書学は、聖書が全体として統一性ある神の啓示だとは信じず、聖書を成す各巻はそれぞれの時代の文化や執筆事情を背景として成立した歴史的文書にすぎないことを前提としているので、聖書各巻は、それぞれの書自体として完結しているものとして読まれるべきであるとされる。したがって、コロサイ書1章で創世記1章を解明するなどということは、近代聖書学者にとってはナンセンスなこととされてしまう。その後、K.バルトが示した男女の相互主観的関係の根拠が「我々」と自称される三位一体の神のかたちなのだという解釈は興味深いものであるし 、また創世記の書かれた時代的文化的背景からの解釈として、「王の『像』がその地にあっての王の権威と存在を代表しているように(ダニエル3:1,5)、神の『像』である人間は被造物世界における神ご自身の権威と統治を代表するかのように立てられている 」という聖書学者たちの見解は、近代聖書学の方法論のもたらした成果として意義あるものではある。しかし、近代聖書学のパラダイムでは、創世記1章の人間創造に際しての「神のかたち」が御子であるという理解を得ることはできない。
以上のように中世から近世にわたっては、キリスト従属説に対するアウグスティヌスの過度の警戒感によって、そして近現代においては近代聖書学が聖書啓示の統一性を否定したことによって、アウグスティヌスより前の古代教父たちが旧新約聖書から読み取っていた、御子が人間創造における「神のかたち」であるという理解は封じられてきたと考えられる。


(2)コロサイ書による「神のかたち」の解明


コロサイ書1章15節本文は以下の通りである。
o[j evstin eivkw.n tou/ qeou/ tou/ o` avora,tou prwto,tokoj pa,shj kti,sewj
 「神のかたち・似姿」にかんする諸説を見てきたのだが、聖書の統一性・漸進的啓示を信じる立場に立つならば、パウロが記したコロサイ書1章15節「御子は見えない神のかたち」に依拠して、創世記1章の「神のかたち」は端的に御子を指していると理解するのがもっとも妥当であると思われる。
聖書啓示の統一性ということで我々が意味していることは、多くの記者の性格・能力・状況が用いられたにしても、唯一の著者である神がその多くの記者たちを十全な指導によって導かれたことのゆえに、聖書は全体として統一された書として成り立っているということを意味する。聖書啓示の漸進性というのは、神は聖書において真理を一度にすべてではなく少しずつ明らかにされたことを意味する。特に、旧約聖書においては暗示されるにとどまっていた真理が、新約において明示されているということである。
 コロサイ書1章15節の「御子は見えない神のかたち」であるという記述が創世記1章26,27節における「神のかたち」を指していることは、次の二点から明白である。第一点は、コロサイ書1章15節は、創造論の文脈で語られているということである。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)幼い日から、律法に親しんだパウロが、創造について論じその中に「神のかたち」と記すとき、創世記1章26節、27節を念頭に置いていなかったと想定することは、ほとんど不可能である。コンツェルマンは、コロサイ書1章14節までの散文体が15節から詩文体に変化して20節までがひとつの讃歌となっていることを指摘し、この讃歌は、この手紙の著者の作ではなく、原始キリスト教会において用いられた讃歌の引用であるとしている 。F.F.ブルースもこの箇所がパウロのオリジナルではなく、原始キリスト教会共通の教えから受け容れたものの一部である と考えている。実際、キリストが神性・先在性をそなえた創造者・神を現す方であるという思想は、コロサイ書のみならずヨハネ福音書1章1−3節およびヘブル書1章2,3節にもあることを見れば、これが原始キリスト教会共通の教えであったという判断は妥当であろう。かりに事実そうであったとしても、パウロがこの讃歌を引用するにあたって、創世記1章27節の創造の記事を念頭に置いていたことは疑い得ない。
コロサイ書1章15節の「御子は見えない神のかたち」であるという記述が創世記1章26,27節における「神のかたち」を指していることの第二の根拠は、旧約聖書において詩篇ヨブ記も神の創造のわざに言及しているけれども、人の創造における「神のかたち」について述べているのは、創世記1章26,27節以外にはないということである。しかも、神の「かたち」という用語に注目すれば、コロサイ書はeivkw.nという語をあてていて 、これはパウロが常々用いていた七十人訳聖書が創世記1章27節で「神のかたち」に用いている訳語と同一である。以上の事実にかんがみれば、パウロが「御子は見えない神のかたちである」とコロサイ書1章15節を記したとき、彼の念頭に創世記1章26,27節があったことに疑いの余地はない。
では、コロサイ書1章の「神のかたち」である御子の役割とはなにか。御子は創造の代理者、保持者であり、目的であると、16,17節は語っている。大づかみにいえば御子は神と被造物の仲立ちの役割を担われる 。無限の超越者である神が、有限な被造物といかにかかわりうるのかということは、哲学的難問であるが、パウロは三位一体の第二ペルソナである御子が、有限な被造物との仲立ちを担当しているのだと語っているのである。
このように解釈したばあいアレイオス的従属説に陥るのではないかというアウグスティヌスの懸念を払拭しておきたい。彼は先に述べたように、人は一つのペルソナによるのではなく三位一体のかたちに従って創造されたと強調し、「もし御父が人間を御子の似像によって創られ、したがって人間は御父の似像ではなく御子の似像であるなら、御子は御父に似ていないことになる 」と推論して、御子のかたちにしたがって人が造られたとする説を批判したが、この推論には誤りがある。アウグスティヌスに対して、我々は、「人は御子のかたちに似た者として、したがってまた、三位一体の神のかたちに似た者として、造られたのだ」と応えよう。父と子と聖霊は本質において同一だからである。聖書は、人は御子の似姿として造られたと述べ、かつ、時には男は神の似姿でもあるとも呼ばれ 、それゆえ神の子どもたちは御父のように完全になることが期待され 、かつ、人は御子に似た者となることが約束されている 。御子に似ることは、父に似ることなのである。御子が人間の創造において仲立ちの役割を果たされたことは、御子が本質において御父に劣っていたことを意味するものではない。御父と御子と御霊は同質であり力と栄光を等しくされる。
なお「見えない神のかたち」は表面的には、プラトン的思想の影響下に成立したグノーシス思想のロゴス論に似ているが、両者は本質的に異なっている。そもそも「コロサイ人への手紙は、グノーシスが広がり始めた初期に、これとの神学的対決が開始された状況をわれわれに示し」てくれる書物である 。コロサイ書の議論を仔細に検討すれば、想定された論敵の思想は「すべての支配・権威 」といった天使たちの諸階級を構想し、諸天使への礼拝を求め 、キリストを諸天使のひとりとみなしていたと推定される。それゆえパウロはこれに対して、「王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。 」とキリストの絶対性を主張して、その論敵を一蹴している 。また天的なものを善、地的なものを悪とし、見えない霊を善、見える物質を悪とするのがグノーシス的二元論的世界観の基本的枠組みであり、物質を造ったデミウルゴスは悪い神であるとするのだが、コロサイ書は「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの」すべてを造ったのは御子であると述べて、グノーシス的二元論を排している。そして、もう一つの決定的違いは、霊肉二元論に立つグノーシス思想にとってロゴスの受肉と受難はありえないのに対して、コロサイ書は神は御子の十字架の血によって平和をつくられた と述べている点である。
以上のようなわけで、コロサイ書1章15節における「神のかたち」はパウロと原始キリスト教会が常に親しんだ創世記1章に根ざしていることは明白である。ちなみに、H.リダボスも、コロサイ書1章15節の「神のかたち」という表現が、フィロンないしグノーシス主義の影響から出ているとする説は信用に値しない として、創世記1章27節に直接的に根ざしていると指摘する 。三位一体の神は、ご自分に似た者として人間を創造されるにあたって、御子が仲立ちの役割を担当されたのである。創世記記者によってすでに暗示されていた真理が、時満ちて、聖霊に導かれたパウロによってベールをはがされ、明示されたのである。

(3)創世記1:27の邦訳について
ここで新改訳聖書第三版の創世記1章26,27節に少々触れておきたい。新改訳聖書第三版は、件の箇所を、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。(中略) 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と訳している。七十人訳聖書は、創世記1章27節の~yhiÞl{a/ ~l,c,îBを、katV eivko,na qeou/ すなわち「神のかたちにしたがって」と訳しているので、コロサイ書1章によって、<「神のかたち」は御子であり、その御子になぞらえて人は創造された>と理解できる。だが、新改訳聖書第三版は創世記1章27節の「神のかたちとして」という訳では、<人イコール「神のかたち」>ということになって、御子の創造における仲立ちの役割が見えない 。
これに対して、文語訳(明治訳)は「神の像の如くに之を創造り」と訳している。ここに重大な違いがある。新改訳第三版では、<人イコール「神のかたち」>という意味に取られるが、他方、文語訳は<人は「神のかたち」に従って造られた「神のかたち」の如きものである>という七十人訳と同じ趣旨になる。
翻訳のポイントは、~yhiÞl{a/ ~l,c,îBにおける前置詞Bをどう訳すかということである 。Bという前置詞のもっとも一般的な訳語は英語でいうinであるから「神のかたちにおいて人を創造された。」と訳すのがもっとも無理がない。実際、ほとんどの英語訳聖書はin the image of Godと直訳している。我々は、ほとんどの英訳聖書また日本の文語訳聖書がそうしているように、「神のかたちにおいて人を創造し」と訳すのがもっとも適切であると思う。
 確かに神と御子は本質において等しく、御子のうちにこそ「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿ってい 」るのであるから、人が御子になぞらえて造られた以上、当然、御子を介して、父なる神のかたちでもあるので「人は神のかたちである」という表現も間違いではない 。しかし、コロサイ書1章の光に照らされて、御子の仲立ちとしての役割を知った我々としては、創世記1章27節は、「神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて彼を創造し・・・」と直訳したほうが、コロサイ書による解明とも一致するので、より適切であると考える。しかも、「神のかたち」とは御子であり、従って、神はもともと人を御子に似た者として造られたという真理は、後述するように御子の受肉や我々の救済の理解にも無理なく連絡する。
 聖書は自然的過程を経て成立した単なる文化的所産にすぎないと信じる自然主義者や理神論者にとっては、創世記釈義にコロサイ書を適用するのはナンセンスなことであろう。しかし、十全な指導によって旧新約66巻の聖書啓示を漸進的かつ統一的にお与えになった聖霊を信じる我々にとっては、コロサイ書による創世記1章のキリスト論的解明こそが、規範的釈義であると判断すべきであろう。

2.「見えない神のかたち」――神の計画のキリスト論的解釈の必然性

 創世記1章26,27節にいう「神のかたち」は御子であり、人は御子に似せられて造られたものである。つまり、御子は創造論的に神と人との仲立ちの役割をしておられる。本章では、おもにコロサイ書1章15節に基づいて、御子は創造においてのみならず、啓示と救済においても、神と人との仲立ちをされることを明らかにする。
 さて、コロサイ書1章15節が「御子は見えない神のかたちである」と述べる、「見えない神のかたち」という表現はなにを意味するのであろうか。神は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」(1テモテ6:16)とあるから、人間は神に近づくことも、見ることもできはしない。人が神を見ようとすることは、たとえば好奇心に駆られた研究者が望遠鏡で太陽を見ようとするようなものである。御子は、人が見ることのできない超越者を「見る」ことができるようにしてくださるお方であるという意味で「神のかたち」である。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(コロサイ1:19)ておられ、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」(コロサイ2:9)いるので、我々は御子を見るとき、御父を見ることができる。同様の思想は、ヨハネ福音書にも表現されている 。宇田進はコロサイ書1章15節に次のように的確な注解を付している。「神がどのようなお方であるかを知るために、私たちはイエスを見なければならない。このイエスは、人が見ることができ、かつ理解できる形をとった神の完全な表象であり、啓示なのである。 」
 伝統的に、キリストの仲立ちとしての役割という言い方は、救済に関して言われることが最も一般的であるから、ここではその典型的証拠聖句はひとつだけ挙げるにとどめておく。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(1テモテ2:5,6)
このように啓示と救済において、御子が神と被造物の仲立ちの役割を果たすことができるのは、そもそも創造において御子が、神と被造物との仲立ちであられるからである。御子は、創造における神と被造物の仲立ちの立場を基盤として、啓示においても、救済においても、神と被造物の間に立って仲立ちの役割を果たされるのである。J.オアは御子が聖三位一体のうちの啓示の原理(the principle)であり、世界と人間の創造における啓示は、御子を通してなされたという趣旨を語っている 。またコンツェルマンはコロサイ書1章15節と18節後半が対応して、前者は創造の仲立ちとしてのキリストを叙述し、後者は救済の仲立ちとしてのキリストを叙述していると述べ、救済者は創造者と一つであるが故に、救済が可能であり、確実となるのだというのがこの讃歌の基本的思想だと解釈している 。
 このようなわけであるから、神認識にあたってのキリスト論的集中というのは創造と保持における神と被造物との関係を基盤とした啓示のあり方からして必然である。御子は見えない神のかたちであって、見えないお方を見えるようにしてくださる唯一のお方であるからである。もしキリストを通さず哲学的思弁をもって神を知ろうとするならば、そこで見出された神は生ける真の神ではなく、スコラ学者たちが陥り、パスカルが非難した「哲学者の神」つまり抽象的な哲学概念としての神にすぎない。また、御子を介さずに生きた聖霊体験を求めようとする人は、暗い森の中をさまようことになる。なぜなら体験主義者は、その体験が神からのものなのか、それとも悪魔からのものなのかが識別できないからである。だから神認識に関しては、神論的集中とか聖霊論的集中ということはありえない。K.バルトは使徒信条を講解して、「キリスト教神学者たちが、造り主なる神の神学を抽象的・直接的に考案しようとした場合には、たとえ彼等がこの高き神を、どのような畏敬をもって考え・また語ろうとしても、いつも迷路に踏み入ったのである。そしてこれと同じことは、神学者が第三項の神学に、即ち第一項の高き神とは反対の体験の神学に、突進もうとした場合にも、起ったのである。 」と述べている 。
 バルトの警告にもかかわらず、今日、ニューエイジ・ムーブメントの波に呑み込まれて、自由主義陣営の神学は包括主義から宗教的多元主義に突き進み、ますます第三項の体験の神学の暗い森に迷い込んでしまっている。我々は「霊性の神学」には一定の意義があることを認めるものであるが、人として来られたイエス・キリストを告白しない霊による神学は、ヨハネが警告するとおり 、反キリストの霊によるものである 。
 イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」と言われたとおり、我々はただイエス・キリストを通してのみ、生ける神を知り、聖霊の満たしを経験することができる。
 我々はコロサイ書1章における創世記1章のキリスト論的解明の一端を見たが、それどころか、復活の日、主イエス旧約聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた 。旧約各巻をその記述された時代・文化・言語の文脈の中で解釈するという意味での歴史的文法的聖書解釈の意義を否定するわけではもちろんない。だが、特に霊感を受けた新約聖書記者またキリスト御自身が旧約聖書をキリスト論的に解明しているところについては、上記の意味での「歴史的文法的聖書解釈」は自らの限界を認める謙虚さが求められるべきであろう。


3.「神のかたち」なる御子を軸として神の計画全体を展望する


 神は、人を御子に似た者として創造された。オリゲネス、エイレナイオスに倣って、我々はこの理解を神の救いの計画全体の中に位置づけたい。「神のかたち」である御子を軸とするとき、創造、人間、キリスト、救済が、さらに予定と教会と終末的完成が一本の太い筋でつながっていることが明確に見えてくるであろう。


(1) 人間の尊厳のリアリティ

 「人間の尊厳の根拠とはなんですか?」という問いに対して、筆者は伝道者となって以来、「それは神が人間をご自分に似た者に造ってくださったことです。」と答えてきた。聖書は「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9:6)とか、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:9,10)と教えているのだから、まちがった教えではなかった。しかし、質問者の表情は、『そうですか。でも、なんだかピンと来ないなあ』と語っていた。考えてみれば、神は人には近づくことも見ることもできないお方であるから、その神に似せて造られたという人間の尊厳も、やはりよくわからないということになる。それは、ちょうど哲学的手法で存在を証明された神が、単なる観念としての神であって、生ける神でないことに通じている。神が単なる観念に過ぎなければ、それに似せて造られたという人間の尊厳もリアリティに欠けるただの観念となってしまうのである。「いまだかつて神を見た者はいない」以上、いまだかつて人間の尊厳を見た者もいないのである。
 だが、イエスが「わたしを見た者は、父を見たのです。 」と言われた通り、御子を見ることによって我々は父なる神を見ることができる。さらに、本来、人は御子イエスに似せて造られたものだということを知るならば、我々は、人間の尊厳をもリアルに知ることができるようになるだろう。我々は、キリストに出会うとき、神に出会うのみならず、自己と隣人とも出会う。「貧しい人にふれるとき、わたしたちは実際にキリストの身体にふれているのです。」というマザー・テレサのことばは、このことと深く関連しているであろう。


(2)キリストの受肉の理解
創世記1章の「神のかたち」とは御子であるという理解によって、御子の受肉の出来事が正しく位置づけられよう。オリゲネスは、次のように講解している。「したがって、この方の像の似姿として人間は造られ、このため、神の像であるわれらの救い主は、その似姿として造られた人間に対して共感の情をもっていたが、人間が自分の像を捨てて、邪悪な者の像をまとったのを見て、憐れみの情に駆られ、人間の像を自分のものとして、(人間の)許に来たのである。 」また、エイレナイオスは、次のように言っている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。そういうわけで、『終りの時に』(その神の子は)似像(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために『現れた』(Ⅰペト1:20)のであった。 」すなわち、創造における「神の似姿」は御子であり、御子は人がご自身に似ていることを見せるために受肉したというのである。
 つまり、F.F.ブルースの言い方でいえば、人が御子に似せて造られたという事実が、後に御子が人となられたことを可能にしているのである 。受肉において御子が取った人性とは、堕落前の人性であり、その人性とは御子自身を範型として造られたものである。御子が人性をとったというのは、本来ご自身に似た者として造られた者の性質を帯びられたという事態であって、御子は似ても似つかぬものの性質を取ったわけではない。
キェルケゴールが、ヨーロッパ思想に伝統的なプラトン的二世界説を背景として、「永遠が時の中に突入した瞬間」というような言い回しで受肉を表現し、弁証法神学がこれを援用したので、現代の我々はある程度これに慣れてしまっている。たしかに「永遠が時の中に」といったダイナミックな表現には、19世紀の汎神論化した自由主義神学において「自然と同質化された神」を打ち砕くという一定の功績はあったのは事実であるが、反面、そこでは神と人の異質性のみが強調されたあまり、創造論との関係における受肉の聖書的な理解を妨げてきたのではなかろうか。受肉とは、グレーゴル・ザムザが何の脈絡もなく、ある朝、突然毒虫に変身してしまった というような不条理な(absurd)事態を意味しているわけではない。むしろ、主の譬えを用いて言えば、受肉とはあの父親が放蕩息子に駆け寄って抱きしめ接吻してやまなかったという事態を意味しているのである。いかに豚の糞尿にまみれて悪臭を放っていたとはいえ、あれは息子であった。あの父親はゴキブリに駆け寄って接吻したわけではない。しかも、父は「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と言おうとする息子に最後まで言わせず 、その指に相続人の証である指輪をはめさせた。驚くべき愛。しかし、馬鹿げた愛ではない。


(3)聖化の理解
人は本来、御父と聖霊との愛の交わりのうちに生きる御子に似せて造られた者であった。それゆえ、人は神を愛し、また、互いに愛し合うべきものである。また、人は御子に似た者として造られたからこそ他の被造物を正しく統治する務めを担っていた。とはいえ創造の段階におけるアダムは「血肉のからだで蒔かれ 」たので無罪ではあったが未完成であり、善悪の知識の木の試練のかなたに「御霊に属するからだ」という完成体を目指す、「罪を犯さないこともでき、犯すこともできる罪なき状態」の自由意志を与えられていた 。
 ところが、人は罪に堕ちて「神のかたち」に似ない者、つまり「罪を犯さないことができない状態」、すなわち、「救いを伴うどんな霊的善に対する意志の能力もみな全く失っ 」た状態に陥り、被造物を暴君的に支配するようになった。
 しかし、受肉した御子の十字架の死と復活によって、信じる者は義と認められ、御霊を与えられ神の子どもとされた。神が、子とされた者たちに与えた聖化の目的とは、パウロが以下に述べるように、「神のかたち」である御子にますます似せられて行くことに他ならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)とあるが、造り主とはすなわち神であるから、「造り主のかたち(eivkw.n)」とは、すなわち「神のかたち」である御子を意味している。パウロは、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)とも述べている。
オリゲネスやエイレナイオスが創造における人間を未完成と捉え、我々の目指すのがいよいよ神に似せられることとしたのは適切であった。またエイレナイオスが、究極の救いにおいて肉体の救いを含めた全人的救いを視野に入れていたことも聖書的に正しいことであった。


(4)「神のかたち」と教会の職務
人は、本来「『神のかたち』のかたち」つまり、「御子のかたち」として造られた。アダムにあって堕落してしまった人間の品性は腐敗しているので、人間を観察しても神に似たところを見出すことはむずかしい。しかし、我々は「神のかたち」であるキリストを知っている。真の神であられたが真の人となられたキリストのうちには、堕落の影響をこうむっていない真の人性がある。キリストの全生涯に、本来の人性が現れている。その内容はあまりにも豊かで一言では表現しがたいので、ここでは御子の品性については、御子の御霊の実すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を挙げるに留めておく。
また、アウグスティヌスカルヴァンは、パウロがエペソ書とコロサイ書で人の再創造の目標について述べるところにしたがって、創世記1章における「神のかたち」が人間の資質のどの点を指しているかを解釈している 。救いの計画全体の中で「神のかたち」を理解しようとした聖書解釈の手法に、我々は学ばなければならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)「造り主のかたち」とはすなわち御子である。その御子キリストに似せられてますます新しくされて行くならば、その人は「真の知識ἐπίγνωσιs」に至る。また類似の表現がエペソ書にある。「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)と、新しい人は「真理に基づく義δικαιοσύνhと聖ὁσιότηs」を身に着けると教えられている。この両節を総合すれば、「神のかたち」の内実は、真の知識と真理に基づく義と聖とであるということになる。我々は、真の知識と義と聖ですべてを尽くしていると考えるわけではないが 、これらが「神のかたち」の主要な要素であることは確かである。
グリム&セイヤーによれば、「真の知識」とは「道徳また神にかんする知識」を意味し、義とは「誠実さ、徳、生活の純粋さ、まっすぐさ、考え方、感じ方、行動の正確さ」を意味し、聖とは「神に対する敬虔さ」を意味している。これらが、たしかに見えない神のかたちである御子キリストにおいて完璧に備わっていたことを私たちは福音書において知ることができる。時折、改革派神学において、「神のかたち」における、知識を預言者職に、聖を祭司職に、義を王職にそれぞれ必要な資質として関連付けて理解し、キリストの三職と教会・キリスト者の三職とを関係付けているのを見かけるが、美しい整理だと思う。
人は、本来、御子の似姿として、従ってまた三位一体の神の似姿として造られたものとして、神を愛し、互いを愛し、被造世界を正しく統治するように立てられた。御子によって再創造された者は、その本来の姿に立ち返って、神への愛と隣人愛に生き、被造物をみこころに従って統治する務めが与えられている。教会は世の光として、そのサンプルを世に提供する務めを担った共同体である。


(5)予定から終末まで
「神のかたち」であるキリストに視点を定めるとき、さらに予定から御国の完成に至る神の計画全体をも見渡すことができよう。パウロはエペソ書1章4節で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」という。この一節は、ローマ書8章29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」と平行関係にある。「御子のかたちと同じ姿に予定された」というのは、「御前で聖く、傷のない者にしようと予定された」というのと同義であり、聖化の完成としての栄化を意味している。それは、罪を犯しえない自由意志を与えられた「善だけを行為するように、完全かつ不変的に解放され 」た状態である。
しかも、その聖化の過程においてキリスト者は孤立しているわけではない。キリスト者たちは、キリストの義のゆえに神の前に義と宣言された被告であるばかりでなく、御子の御霊を受けて神の子どもとされた者同士、つまり、互いに兄弟姉妹であるからである。キリスト者は御子イエスを長子とする兄弟姉妹の交わりつまり教会のなかで、その罪から清められ神への愛と隣人愛の実を結んでいく。そして、終わりの時、被造物は滅びの束縛から解放され、御子を長子とする栄化された神の家族は、御国を相続しこれを正しく治める務めが与えられる 。


結論 


人間が創造において範型とされた「神のかたち」とは御子であるという理解は、宣教上どのような益をもたらすであろうか。第一に、この理解に立つとき、旧約聖書新約聖書のつながりが、明らかになる。創世記1章26,27節の「神のかたち」が、神の御子を意味しており、人は神の御子に似た者として創造されたという理解は、旧約聖書新約聖書の一体性を明確にする。
第二に、予定論・創造論・人間論・キリスト論・救済論・教会論・終末論の流れがキリストを一本の筋として簡潔に把握できる。神は神の民を世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、そしてきよい御子のかたちと同じ姿にしようと予定された 。神は、御子に似た者として人を創造なさったゆえに、創造論的にも啓示論的にも、御子は神と人および全被造物との間の仲立ちであられる。だからこそ御子は受肉して罪を贖って、救済論的にも仲立ちとなられた。御子の十字架の死と復活を根拠として義と認められた者は、同時に御子の御霊を受けて神の子どもとされ、キリストを長子とする兄弟姉妹の中で聖化の道をたどるが、その目標は御子イエスにますます似た者とされていくことにほかならず、それは終末における主の再臨と全被造物の更新において完成する。
我々は、以上に基づいて、たとえば次のように聖書の教えを語ることができるだろう。「天の父は、人間を御子に似た尊い存在として造ってくださいました。だから、罪に堕ちてしまっている私たちをご覧になってかわいそうに思われました。そこで、御子は、私たちを罪と死から救うために、二千年前、自ら人となって私たちの歴史の中に来てくださり、イエスと名乗られました。御子イエスは、私たちの身代わりとして十字架にかかって死に、三日目に復活して、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。御子イエスを信じる私たちは、神の子ども、神の家族とされたので、長子であるイエス様から目を離さないで日々ともに成長していくのです。」