苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XXI 大審判前夜

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)主イエスは、このように、ノアの大洪水をご自分の再臨と最後の審判の型であると語られました。ですから、最初に造られた世界に対する神の大洪水によるさばきを学ぶならば、私たちの主の再臨へのよい備えとなるでしょう。
  
1 めとったり、とついだり

 神に背き、己が力で築いた都市文明を誇りとしてきたのがカイン族でした(創世記4:16-24)。他方、死んだアベルの代わりに神がアダムとエバに与えた息子セツから出た一族は、己の無力のなかで主の御名を呼ぶ祈りの民として歩みました(創世記4:25,26)。世的にいえば、羽振りがよかったのはカイン族で、セツ族はいかにも地味です。けれども、セツ族こそ、神を知る幸いな一族でした。両部族は、もともと異なる価値観のもとに生きていました。
しかし、時を経るにつれて、カイン族とセツ族は近づき入り混じってしまいます。いや混じるというよりも、セツ族はカイン族の価値観に呑みこまれてしまい、ついには神を畏れる人はただノアだけになってしまうのです。それは男女交際と結婚のあり方に典型的に現れてきました。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」(創世記6:1,2)
ここにある「神の子ら」を天使と解釈する人もいますが、御国における人間は「めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マルコ12:25)と主イエスがはっきりと言われましたから、天使の結婚はありえません。むしろ、ここは創世記4章からの流れのつながりから、「神の子ら」と呼ばれているのは、セツ族の男たちを意味しており、「人の娘ら」はカイン族の娘たちを意味していると理解するのが適切だと筆者には思われます。
セツ族の青年たちは「神の子ら」と呼ばれるのですから、一族の伝統から言うならば、結婚に関しても、なにより神のみこころを求めて祈り、相手を選ぶべきでした。ところがノアの時代には彼らは神の御心などそっちのけで、カイン族の娘たちがいかにも美しいのを見て、好きな者を選んで結婚するようになってしまったのです。敬虔なセツ族の娘たちの清楚な美しさには目を留めず、着飾ったカイン族の娘たちの淫靡な魅力にひかれてしまうようになったというわけです。性の乱れ、そして結婚の乱れということが、大審判前夜の社会の風潮でした。
性の乱れは結婚と家庭を破壊します。破壊された夫婦は、そこに育てられる子どもたちの心を壊し、ついに社会全体を腐敗させます。こうして終末的様相はいよいよ深くなっていきました。
聖書は結婚・夫婦・家庭を重んじます。だからこそ、サタンは最初からアダムとエバという夫婦に攻撃の矢を射掛けて来ました。堕落したノアの時代にも、やはり神のみこころを無視して「めとったり、とついだり」していました。現代もまさに同じ状況です。キリスト者にとって結婚で肝心なことは、「好きな者を選ぶ」ことでなく神のみこころです。

2 ネフィリム

 神のみこころに無関心な名ばかり「神の子」であるセツ族の男たちと、神に反逆するカイン族の女たちが結ばれた家庭には、どのような子が育つのでしょうか。
「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。」(新共同訳、創世記6:4)
ネフィリムというのは巨人族とされるので肉体的にも巨大であったかもしれませんが、それと同時に、その心が傲慢によって巨大に膨れ上がっていた人々であったと解するのが適当だろうと思います。カインの子孫レメクは、「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(創世記4:24)とうそぶきました。自分のいのちの価は、先祖カインの七十七倍もあるのだと豪語したのです。レメクに連なるネフィリムたちは、神、真理、正義といったことにはまるで無関心で、この世で権力と富と快楽と名誉とを得ることが人生の成功であるという種類の人々です。そういうネフィリムたちをこの世は英雄とほめそやす時代でした。真理と正義の源である創造主に背を向けた世界です。そこには、偽りと罪と憎しみとが渦巻いています。
神は、そのような世のありさまをご覧になりました。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)

3 ノアは神ととにも

 こうして、主は「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛め」ついに決断されたのです。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と。
 「愛の反対はさばきである。ところで神は愛である。したがって、神はさばくことは決してなさらない。」こんなことを教える人々がいます。そして、さらに彼らは「最後の審判や地獄などは、教会が信者を脅して支配するために勝手に作り出した作り話である。」と続けます。このようなことを教えるのはニューエイジ・ムーブメントという、復興グノーシス主義に属する人々です。彼らによれば、神とは善悪を超越し、神と人間を超越し、男女を超越し、神と人間と動植物すべての違いを超越し、あらゆる宗教を統合し、すべてのものを包み込む無限抱擁の存在なのです。彼らのいう「神」はすべての区別を超える汎神論における「神」であって、聖書に啓示された、無から万物を造り治めておられる三位一体の人格神とはまったく異質のものです。たしかに、神は忍耐強いお方です。けれども、神は正義のお方ですから、あくまでも悔い改めようとしないこの世を最終的にはお裁きになる日が必ずやってくると聖書は告げています。
 暗黒の世界で、「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。・・・ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩」みました(創世記6:8,9)。罪の世にあって罪に染まらない秘訣は、常に神とともに歩むことをおいてほかにありません。