創世記4:16−26
2016年6月5日 苫小牧主日夕拝
ここ4章16節から26節には、二種の民の歩みが記されています。一つは16節から24節までに書かれている神に背を向けて去ったカインとその子孫の一族です。これをカイン族と呼ぶことにします。もうひとつは、25,26節に記されている、神がアベル亡き後に神がアダムとエバに与えたセツとその子孫の一族です。これをセツ族と呼ぶことにします。カイン族は、神に反逆し神なして生きてゆこうとする一族であり、セツ族は神を祈り求めて生きる一族です。アウグスティヌスは、神を愛する国は神の国、世を愛する国と地の国と呼び、神の国と地の国の絡み合いとしての歴史を描きました。
1 カイン族
(1)エデンの東・・・反抗と不安
4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
「ノデ」とは、さすらい・放浪という意味のことばです。兄弟を殺し悔い改めを拒んだカインは、大地に呪われて落ち着くところを持たずに放浪してまわるようになりました。そんなカインは、エデンの東に住みますが、その地の名はノデというのです。その意味は、さすらい・放浪という意味ですから、皮肉です。放浪という名の地に住み着いたというのですから。
神に背を向けたので、人は自分自身の落ち着くべきところを失ってしまっています。「自分は誰なのか?自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」がわからなくなるのです。自分の存在理由と自分の存在も目的がわからなくなってしまいます。
昔、日光の華厳の滝で第一高等学校の学生藤村操が「嗚呼人生不可解」と言って身を投げたという話は有名ですが、藤村操でなくとも、造り主である神を見失った人はだれもが、自分がどこから来て、どこへ行くかを知らないのです。世に生まれては来たけれど、生きる目的・生きる意味がわからないのです。だれもが無目的にただ生きて、死んでゆくのです。パスカルによれば、たいていの人はその人生のむなしさをごまかすために、さまざまな「気晴らし」をしているのです。人生のむなしさを真正面から見据えた人は、藤村操さんのように、死んでしまうのかもしれません。カインの末裔の悲惨です。
神に背を向け、神を見失って以来、人間は心落ち着く場所を持ちません。落ち着きどころの無い不安な心、それがカインとカイン族の心の特徴です。
(2)レメク・・・一夫多妻主義・権力欲
さて、続く17節から24節には、神に背を向けたカインが町を築き、カインの子孫に最初の一夫多妻主義者レメクが生まれたということがしるされています。抜粋して読んでみます。
4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。
カインが妻を得たというけれど、この妻はどこから来たのかという議論が昔から論じられます。アダムとその妻エバから生まれた娘たちがいたのでしょうし、兄弟たちも他にいたということを意味しています。カインのように、神と父母に反抗して去った兄弟姉妹たちがいたということでしょう。5章にはアダム以降の系図が記されていますが、アダムの寿命は930年とありますから、その間に、神に従う子孫、神に従わない多くの子孫を残したのでしょう。その一人がカインの妻となりました。こうしてカインの子孫が増えて生きますが、そこにレメクという男が登場します。
4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。
4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。
(中略)
結婚は、本来、神の第二位格である御子に似たものとして造られた男女が、全人格的な交わりをし、神と神の民の交わりがこのように素晴らしいものであることを表わすために定められた制度です。けれども、レメクは二人の妻アダとツィラ(鈴)をもつことにしました。レメクにとって妻とは、自分の性欲を満たすための道具となり、あるいは虚栄のための道具のような存在にすぎなかったのです。また、女性のほうも「あなた好みの女になりたい」というふうな、奴隷に甘んじるような、しかし、本音のところでは、その色香でもって夫をコントロールすることを狙っているような関係になっていきます。
レメクは、その妻たちに、自分の権力・暴力を自慢して歌うのです。
4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。
「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
カイン族の精神は、神への反抗心と不安であると申しましたが、もう一つの特徴は、その不安を覆い隠すために力を求め、力を振りかざすということです。権力であれ、暴力であれ、経済力であれ、己の力でもって、神なしに成功してみせてやる、他者を支配したいという意志です。
(3)都市・文明・芸術
このカイン族から、都市と産業と芸術が生まれてきたというのは、注目すべきことです。
4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。
4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。
4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
カインが最初に町を建てたことについて、フランスの哲学者ジャック・エリュールは著書『都市の意味』という書物のなかで、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数 多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。」と注目すべき発言をしています。神は「地を耕し、これを守れ」という命令を堕落前のアダムにお与えになりましたか ら、労働・文化形成自体はよいことです。人は、仕事につき文化的営みをすること通して神の栄光を現わすことができます。しかし、堕落後の人類の歩みを見る ときに、特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。カインは、神に背いた自分は誰かに殺されてしまうという恐怖を訴えたので、神はかれにひとつの印を与えて、彼が人殺しに遭わないようにしてくださいました。けれども、彼は神を信頼することが出来ませんでしたから、自分の住まうところの周囲に塀を築き、やがてそれが町となりました。
そして、都市について、聖書は一貫して、神に反逆し、やがて滅ぶべきものとして描いている点に注意しておくべきです。バベルの塔、ソドム、ゴモラ、エリコ、バビロン、ツロ、そしてエルサレムというふうに都市は人々の権力と欲望と罪が集中して、やがて、自然災害か、あるいは戦争で滅ぼされていくのです。
また、神が明日も私たちを養ってくださることを信用できない人々が、どのようにしたら安定的に食料を得ることが出来るだろうかと考えて家畜を飼い、天使たちの賛美に心慰められることができないので自ら慰めるために音楽を工夫するようになりました、そして、青銅と鉄器の発明者は最初は農機具は斧に、やがては他者をより多く効率的に殺害する武器をカイン族にもたらしました。その直後に、あのレメクの例の暴力を賛美する歌が出てきますから。
「4:23私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
都市と文明の利器や芸術が、最初にカイン族から出てきたということを聖書が啓示している意味を私たちはよく考える必要があります。文明や技術や芸術は、後に、神の民によっても用いられていくものです。たとえば、音楽は主を賛美するために活用されていくのですし、建築技術は神殿建築にも役立っていくのですから、文明には一般恩恵ということができます。しかし、これらの文明の利器の発端がカイン族にあったということは、何を意味しているのでしょうか?それは、都市というもの、また、文明の利器や芸術は、カイン族にとっては真の神なしで生きるためのもの、神に代わるもの、つまり偶像であったということなのです。ですから、私たちは、この点に警戒心を持っているべきです。芸術も科学も産業もみな一般恩恵ですから、神礼拝の道具とすべきです。芸術至上主義とか、科学主義とか、経済至上主義は、みな偶像崇拝です。文明・技術・芸術は、どこまでも神のみことばの支配の下に置かねばなりません。そうするならば、これらは有益なものとなりますが、神のことばの支配の外においてそれ自体を目的化するならば、科学技術も芸術も経済も有害なものとなってしまいます。
3.セツ族は主の御名を呼ぶ
カイン族がいわば華々しい文明・都市国家を築き始めているとき、他方で、神はアダムとエバに、今は亡き敬虔な息子アベルに代わるもう一人の子セツを授けました。
4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
このセツから、セツ族が出てきて、その系譜はノアに続きます。セツがどういう人物であり、その一族がどういう人々であるかを示すことが26節に表現されています。
4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。
セツは自分に生まれた男の子をエノシュと名づけたというのですが、エノシュというのは「人」を意味するもう一つのことばです。アダムは土から造られたものという意味ですが、エノシュということばは、形容詞の「弱い」ということばと同じ根のことばで、特に、神の前における人間の小ささ、弱さを表現するときに用いられることばです。たとえば、詩篇8篇にこうあります。
8:3 あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人(エノシュ)とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
もしかするとセツはわが子が生まれたとき、この子がとても弱くてちゃんと成長できるだろうかと心配して、エノシュつまり「弱し」君と名づけたのではないかと思います。セツは父親として、「主よ。この弱い子に、いのちを与えてください。」と神の前にひざまづいて祈りつつ、このエノシュは育てられていったのであろうと思われます。「人々は主の御名を呼ぶことをはじめた。」(直訳)のです。
神の前に虚勢を張るのではなく、神の前にありのままの自分の弱さを徹底的に認めるところに、主をせつに呼び求める祈りが生まれてきます。これが、神の民セツ族の特徴でした。
結び・適用
カイン族は城壁を築き、次々と産業と文明の利器と芸術を生み出し、富を獲得して妻を何人もめとって快楽と華々しいあゆみをしていました。他方、セツ族は、病弱の息子が生まれて、その子のために祈り始めたということを特徴としていました。世間というものは、こういう姿を見ると、カイン族が祝福されていて、セツ族はあまり祝福されていないというふうに判断するものです。いや、キリスト者たちもついこの世の価値観に影響されて、物事をうわべで見てしまい、米国にあるようなショッピングモールを兼ね備えたようなメガチャーチが華々しく巨大で富が集まる教会は祝福されていて、主の御名を真剣に呼び求めているけれど細々とした群れには同情はしても祝福されているとは思わないのかもしれません。
イエス様がガリラヤで伝道をしていたとき、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人という群衆を満腹にしてやったことがありました。その時、人々はイエス様を王として担ぎ出そうとしました。イエス様を権力者として、自分たちはその利得にあずかろうとしたのです。しかし、イエス様はこの群集たちを避けて、この世の王として成功することを避けました。主イエスには、十字架にかけられて殺されて、私たちを滅びから救うという使命があったからです。
この世は圧倒的に、神に背を向けて、富と快楽と権力と栄誉を求めて生きています。それが広き門です。しかし、永遠のいのちにいたる門は、狭き門です。神の前に頭をさげて、、自らの弱さを認めて、主の御名を真実に呼び求める群れであることです。主イエスはおっしゃいました。
「7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13,14