苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

書評:赤江弘之『私なりの「主のいのり」』

 赤江弘之牧師のご著書の書評です。出版社からの許可が出たので、先行公開します。

 

            教会を建て上げる「主の祈り」  

 

 「主の祈り」の講解は数ありますが、本書は他に類を見ない「主の祈り」講解説教集です。そのユニークさは「独りよがりの」という意味でありません。むしろ、著者は、先達の見解を踏まえて堅実な聖書釈義に基づいて、少々こむずかしい議論も避けずに、みことばを丁寧に説き明かしています。

 では、何が本書のユニークさなのでしょうか。一つはB・F・バックストンの松江バンド由来の「臨在信仰」、一つは長老主義に立つ堅固な教会形成が目指されていること、一つは裸祭りで有名な西大寺町で教会形成に励んできた著者ならではの異教文化に対する福音の弁証という視点、一つは十字架のことばを核心としつつ全被造物の救済を視野に入れた福音理解、そして、これら多様な側面が、「主の祈り」の解き明かしの中で豊かに表現されていることです。

 説教は神のことばですが、また、説教は人のことばです。情熱的かつ冷静で、観念的に見えて実際的で、視野広大かつ細やかな著者なればこその説教集です。こうした説教が、あの古い町で堅固な主の教会を建て上げてきたのだと思いました。

 ですが、評者の心に最も深く残ったのは、「赦し」について説かれた章の結びに記された、著者の母上に対するかつてのご自分の罪深い思いに関する悔い改めのことばです。まことに率直にひとりの罪人として、著者は神の前に額づいています。気宇壮大で、宣教の情熱に満ち、かつ冷静に御言葉に沈潜する著者は、聖なる神の前には一匹の祈り虫なのでした。評者は、著者赤江牧師と同じ教団の奉仕において、多くの会議を共にしました。困難な議事が深夜に及び、立ち止まって「祈ろう」というときになると、赤江牧師は椅子からすべり下りて、床にひれ伏して天の父に叫ばれました。本書を読み進める中で、そのお姿を思い出してしまいました。

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いのちのことば社、2020年11月