苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神に背を向けた人間  ・・・・・日本同盟基督教団信仰告白06

創世記3章1−19節


「初めに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、神の戒めに背いて罪を犯し、神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」(日本同盟基督教団信仰告白第4項)

1.「善悪の知識の木」

(1)神の主権の下に生きる幸い
 創造における人間についての後半に「神と正しい関係にあった」とあります。「神との正しい関係」は創世記2章16節に出てくる「善悪の知識の木」に表現されています。神は次のようにおっしゃいました。
2:16「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
 このご命令は、本来、「人間は神の主権の下に服従して、自分の分をわきまえて生きるべきもの」であることを意味しています。人にはそれぞれ許された分というものがあるわけで、分をわきまえることは、人が生きる上でたいへん重要なことです。たとえば、政府というのは憲法の下に置かれた機関として、憲法を尊重しこれに従うという分の中で国を治める仕事をしていれば、それは正常な状態ですが、憲法が気に入らないからといって、好き勝手に憲法を変えたり無理やりな解釈をしたりすれば、国は混乱し入らぬ争いを内外に引き起こして、国民は不幸になります。もっと身近なところでいえば、家庭においては子どもには子どもとしての分、親には親としての分があります。親は子どもが幼い頃に、子どもは親の権威の下にあることを教えることが肝心です。
神は万物の創造主であり、私たちはその御手になる被造物です。両者は陶器師とその手の中の粘土のような関係です。創造者は、その粘土に対して絶対的主権をもっています。陶器師がある粘土を茶碗に、ある粘土を急須に、ある粘土を花瓶に造ってその用途を決める主権を持つように、私たち人間は、創造主の作品ですから、創造主の定めた善悪の基準の下に置かれています。「初めに、人は神と正しい関係にあった」というのは、被造物として創造主の権威の下にへりくだって生きる者で、神を愛し、隣人を愛し、被造物を耕し守る幸いな生活をしていたということです。
この木の実の実を食べないということは、アダムが神の権威の下にへりくだって生きることの証でした。逆に、アダムがこの実から食べるということは、神の主権を拒否して、己の分を踏み越えることを意味しました。

(2)自己と隣人と被造物との関係の調和
 人間は神との関係、自分自身との関係、隣人との関係、そして他の被造物との関係のなかに生かされています。人間は、特に若いとき「自分は何者なのか?何のために生きているのか?自分には生きている価値はあるのか?」というアイデンティティの問題に悩みます。神の権威の下に自分を置いていたとき、まず、人は自分自身と調和して生きることができました。自分は神が愛してくださっている「神のかたち」において造られた神の作品なのだとわかっていたからです。
また、人は神の権威の下にあるとき、内面において意志をもって自分の欲求を正しくコントロールできました。食欲、性欲、知識欲、所属欲などさまざまな欲は、きちんとコントロールされているならば本来、人が生きていく上で必要で有益なものです。
 また、神の主権の下にあったとき、人は隣人と正しい関係にありました。そのことを聖書は、アダムと妻は「二人ともは裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」と表現しています。お互いを信頼し受けいれ合っていたことを意味しています。お互いに「神のかたち」にしたがって創造された尊い存在であるということを認め合って生きているからです。
 神と正しい関係にあったとき、人は他の被造物との関係においても調和がありました。植物だけでなく、熊やライオンといった野獣に襲われる心配もなく、病原菌に苦しめられることもなかったはずです。川は清々と流れて洪水を起こすこともなかったでしょう。
 このように、創造主である神の主権の下に生きていたとき、人は自分自身を愛し、隣人を愛し、被造物を慈しみ管理して生きることが出来たのでした。

2.反逆・・・サタンの誘惑

 しかし、残念ながら最初の人アダムと妻は、サタンに誘惑され神のご命令に背いてしまいました。

(1)サタンとは
 創世記3章に登場する「へび」は、黙示録のいう「あの古い蛇」であり、聖書のほかの箇所で悪魔・サタン・巨大な竜・ベルゼブル・空中の権の支配者・この世の神と呼ばれる霊的存在者です。
「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。」(黙示録12:9)
どうしてサタンのような神の敵対者が存在するのか?不思議な気がします。聖書はサタンの起源について詳細を述べず、ごく簡単に教えているだけですから、あまり深入りしないことが心得として大事です。もともとサタンもまた神の被造物である御使いのひとりでしたが、傲慢にも自分のおるべき所を捨てて、神の呪いを受けた者です。サタンは単数ですが、神に背いた御使いたち複数でサタンの手下です。福音書にたびたび出てくる悪霊は、そういうサタンの手下たちです。
ユダ書は言います。「1:6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」サタンは、己の分を捨てて思い上がって地に落とされた天使たちのかしらです。(伝統的には、イザヤ書14:12−15、エゼキエル書28:11−19はサタンの高慢が高慢になり落とされた記事として読まれてきました。)
 黙示録によれば、サタンの最期はゲヘナにおける永遠の滅びと定まっています。それで、サタンは、人間を惑わし、神の民を迫害し、一人でも多く自分と同じように神に背き、ゲヘナの永遠の炎に苦しむものたちを増やしたいのです。

(2)サタンの誘惑と人間の罪
 サタンはまず、女に神のことばに対する疑いを抱かせました。「蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」(創世記3:1)こう言われて、女は蛇に言いました。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」(創世記3:2)彼女はアダムからきちんと教わらなかったせいか、神のご命令を正しく説明できません。神は、「それにふれてもいけない」などとはおっしゃいませんでした。また、「あなたがたは必ず死ぬ」と言われたのに、「死ぬといけないからだ」と少し弱いニュアンスで説明しています。神のことばに付け加えたり水増ししたりするとサタンの罠に陥ります。

サタンは、次に人間の欲望につけこみました。
「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4−6)
 サタンは「あなたがたは神のようになれる」と、虚栄心をくすぐりました。すると、彼女の目にとって善悪の知識の木の実は「食べるのに良く」見えて肉の欲を刺激されました、目に慕わしくて目の欲(好奇心)をそそるものとして映りました。サタンは肉の欲・目の欲・虚栄心という欲につけいって、罪に誘い込むのです。
結局、彼女は罠に落ちて食べました。そうすると、今度は彼女は神のようにでなく悪魔のようになって、自分の夫を誘惑して彼にも食べさせてしまいます。「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」(創世記3:7)

3.罪の結果

 禁断の木の実を食べたとき、何が彼らに起こったでしょうか。信仰告白文は次のように言っています。「神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」
 罪の結果として、ここでは、神のかたちの毀損、原罪と悲惨、死と滅びという三つの側面から学んでおきましょう。

(1)「神のかたち」を毀損した
 人は本来、「神のかたち」において造られた尊い存在です。私たちは、「神のかたち」とは、まずコロサイ書1章15節から三位一体の第二位格である御子のことであると学びました。次に、コロサイ書とエペソ書から、知と義と聖つまり、知性と道徳性と宗教性であることを学び、また、「神のかたち」とは三位一体の神のように互いに愛する存在であるということを先に学びました。
しかし、このすばらしい神のかたちが罪の結果、壊れてしまいました。人間はきよく愛に満ちたイエス様とは似ても似つかぬ者となりました。それは知性と道徳性と宗教性が全部消えてなくなったという意味ではありません。もし人間から知性も道徳性も宗教性がすっかり消えてしまったら、もはや人間でないでしょう。ここで言おうとしているのは、知性・道徳性・宗教性はあるにはあっても、真の神に反逆する知性・神に反逆する道徳性・神に反逆する宗教性になってしまったということです。神の主権の下にへりくだることを恥として、神なしで、人は知性の力、その産物である文明の力で生きてゆけるのだとうそぶく知性。また、神なしで自分の良心を頼りに生きられるのだという高慢な道徳性。宗教は宗教でも、オカルトに凝ったり、偶像の神々を拝むような宗教性になってしまったというのです。
 
(2)原罪と悲惨
 人はアダムの堕落以来、生まれながらに罪の性質をもつ者となってしまいました。これを「原罪」と言います。ダビデが「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51:5)と嘆いたように、人は母の胎に宿ったときから罪深い性質を帯びるようになってしまいました。その原罪から、思いと言葉と行為におけるさまざまな罪が生じてきます。
 まず人は自分自身の内面で欲望をコントロールできなくなりました。それは、アダムと妻が作ったいちじくの葉の腰覆いに現れています。彼らは禁断の木の実を食べた口でなく、自分の性器を恥じました。それは、神の戒めにそむいたとたん、肉欲が彼らの道徳性を無視して肉体を突き動かすようになってしまったからでしょう。人は、自分で自分の欲望をコントロールできなくなり、自分の良心に背く悪を行う惨めな状態に陥りました。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)
 また、彼らは、かつてあれほど慕わしかった神の御顔を恐怖と嫌悪の対象とするようになり、園の木の陰に身を隠すようになりました。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)とあるとおりです。

 また、隣人との関係においても悲惨が生じました。神に追及された夫は「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)と妻と神に自分の罪の責任を転嫁しました。かつて相互に信頼し合っていた夫婦の間に相互不信が生じ、裏切り合う関係となりました。また、かつて夫婦の間にあった、<夫の妻に対する献身的な愛と、妻の夫に対する信頼と服従>が失われ、<夫が妻を暴力的に支配し、妻は夫に奴隷的に服従・反抗する>という悪循環に陥ってしまいました。このことは、エペソ書などが新生したキリスト者の夫婦の関係には、<夫の妻に対する愛と、妻の夫に対する信頼と服従>という関係であると教えていることからもわかります。

 さらに、人と被造物との関係において悲惨が生じました。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(創世記3:17,18)とあります。「いばらとあざみ」は、被造物の人間に対する反抗を象徴しています。神に背いて以来、人は、恐ろしい野獣や病原菌や風水害におびえて生活しなければならなくなりました。やがて人間は、こうした被造物の反逆を文明の力をもって支配するようになり、今度は環境破壊という問題を生じています。
 要するに、神という権威に反逆したとき、人は自分自身が何者であるかがわからなくなり、自分の内面において肉体が精神に反逆することを経験しなければならなくなり、対人関係においても不調和を、対被造物関係においても不調和を経験しなければならなくなったのです。これらがアダムと妻の堕落以来、私たちが経験している、罪の結果としてのさまざまな悲惨です。

(3)三つの死
 人はみな生まれながらに罪と悲惨の中に置かれています。そして神に背いたままにこの世を過ごすならば、最後に待っているのは、永遠の滅び以外にはありません。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19)とあるのは、肉体的死です。
さらに、信仰告白文は、「自分の努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」と言います。
 神は、「(善悪の知識の木から木の実を)取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と警告されました。最初の夫婦があの実を食べたその時、彼らは肉体的には即死しませんでしたが、霊的には即死しました。すなわち、神との霊的な交流が断たれて、彼らは神を恐怖と嫌悪の対象とするようになりました。
やがて、彼らは肉体的にも死ななければならなくなりました。そして、肉体の死後には神の前に、その思いと言葉と行為において犯した罪に応じて、永遠の滅びの宣告を受け、ゲヘナに陥らねばならなくなってしまいました。これは第二の死です。
 黙示録は神に背いた人の最後について次のように教えています。「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8)

結び
 最後に、救い主の約束を簡潔に話しておきます。神は、アダムと妻が罪を犯した直後、二つの形で、救い主キリストの到来を予告されました。一つは、「女の子孫」としての到来です。女の子孫のかかとに蛇(サタン)は噛み付くが、次の瞬間、彼の頭は踏み砕かれてしまうというのです。サタンはイエスを十字架にかけて殺して勝利を得たと喜んだ瞬間、御子は十字架の死をもって私たちの罪をあがなって復活してくださることの預言です。
 もう一つのキリストの到来の約束は、神が二人のために手づから動物を犠牲にして作ってくださった皮衣です。これは、後の日の旧約時代の動物犠牲による罪のあがないと、それらが指差していたイエス・キリストの十字架における罪のあがないとを指差しているものでした。本日は聖餐主日です。神が私たちのために用意してくださったキリストの十字架の出来事をしのびながら、これにあずかりましょう。