苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「幸福の王子」


  (ウォルター・レインによる)


 小学生たちが今日は8人わーっと嵐のようにやってきた。先週の6人に2人の新人が加わっている。ドラムをたたいたり、ピアノを弾いたりして大騒ぎしていたが、そうだと思いついて、「紙芝居を見る人!」と言ったら一人をのぞいて、手が上がった。
 手元にあった「幸福の王子」の紙芝居をしてあげた。オスカー・ワイルドの作品である。私が須磨の教会付属の千鳥幼稚園に通っていた時、たぶんクリスマス会で「幸福の王子」をしたことがある。私は、町の観光案内人役なのか市長役なのかさだかでないが、ともかく劇の最初に美しい姿の幸福の王子像を人々に自慢げに紹介し、最後にみすぼらしくなってしまった王子像をけなすという役だった。
 夏が終わり、ツバメたちがもっと暖かい地(エジプト?)に渡っていこうとするとき、一羽のツバメが幸福の王子の像の足元で一休みしていると、王子の目から落ちた涙がツバメを目覚めさせた。王子が貧しいやもめと子供をかわいそうに思って落とした涙だった。王子に頼まれてツバメはこの貧しい母子のもとに往時の剣の飾りの宝石をとどける。ツバメはなんだかとてもうれしかった。翌日ツバメが旅立とうとすると、王子は今度は自分のブルーの目の宝石を、貧乏画家に届けてくれと頼む。・・・・このようにして、王子はツバメに頼んで次々に自分の宝石、黄金を貧しい人々に届けさせる。ツバメはこの奉仕に夢中になり、そして、冬が訪れて、力尽きて死んでしまう。そのとき、王子の像の鉛で作られた心臓が二つに割れる。
 神は、天使に地上で最も美しいものを持ってきなさいと命じる。天使は王子の割れた鉛の心臓とツバメの亡骸を神のところにお持ちする。

 紙芝居が終わりに近づいて、「あ、そうだったんだ」と気が付いて質問した。「この幸福の王子は誰かのことを例えています。誰のことでしょう?」こどもたちは顔を見合わせていたが、S君が手を挙げてこたえた。「イエスさまです!」 幸福の王子はイエス様のことを指していたのだということが、幼稚園のころから五十数年もたった今日、はじめてわかった。なんとも鈍いことに、私はずっとキリスト教の幼稚園なのに、なんで幸福の王子の劇なんかしたんだろう?と疑問に思っていた。

「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)

 クイズが終わると、子どもの一人が言った。「じゃあ、ツバメは誰を指しているんですか?」胸を衝かれた。瞬間、主は私をあのツバメとして召して、あのツバメのように生き、そして死ねとおっしゃっているのだとわかったからである。