苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエスの王職

そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むちうちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫いろの着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王様。万歳」と言い、また、イエスの顔を平手で打った。(ヨハネ19:1,2)


 キリストの三職として預言者・祭司・王があげられ、キリストは低い状態と高い状態において、これら三つの職務を果たされると、神学では表現します。これを「三職二状態」と言い慣わすんだよ、と私に最初に神学をてほどきしてくださった増永牧師が教えてくださいました。
 預言職を祭司職はわかりやすいのですが、王職はどうでしょうか。キリストが父の右に着座されてのちは王様らしくてわかりやすいのですが、この世を歩まれたときのキリストの王職は。イエス様の低い状態での王の姿は、いばらの冠をかぶり、紫の衣を着せられ、葦の棒を王杖とするものでした。
 以前も書いたのですが、ブラザー・サン・シスター・ムーンという映画で、二つのキリスト像が出てきます。一つはアッシジのデラックスな礼拝堂の正面にある鎧をまとい黄金の冠をかぶったキリスト像で、司祭はこのキリスト像を背に町の青年たちを励まして戦争に送り出します。「征け、アッシジの子らよ!」とか言って。もう一つは、崩れ落ちたサン・ダミアーノ礼拝堂の正面にかかっていた素朴で優しげな顔をした荊冠をかぶったキリスト像です。
 キリストの王職をどのように理解するかということは、私たちの生き方、教会が国家に対してあるいは戦争に対してどういう態度をとるかということを大きく左右してきたように思います。キリスト教会の歴史を振り返ると、コンスタンティヌス大帝以来、キリストの王職の理解において、大きな過ちを犯してきたのではないかと思うのです。