苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

子としての聖化




 先週木曜日から土曜日まで、中野で行なわれた同盟教団121周年記念大会に妻と出かけていました。妻はこういう大会に参加するのは二十数年ぶりなので、多くの「久しぶりの出会い」があって、感激でした。
 写真は、宿泊場所の近所の大久保の「ベトナムちゃん」というお店で食べたお昼ご飯です。たいへん人気のお店のようでした。米の麺フォー、生春巻き、揚げ春巻き、サラダで780円。ベトナム料理は初めてでした。
 今朝は、義認と子とすることと聖化について、今から20年以上も前に書いた物ですが、『神を愛するための神学講座』に書いたものをここにアップしておきます。N.T.ライトも課題として考えていることです。


ちなみに、『神を愛するための神学講座』はこちら↓
http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/kamiwo-aisuru.pdf

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 キリストを信じる者が、この世で受ける祝福は何かというと非常に多彩で深く豊かなものがありますが、そのうちで主要な祝福はなにかというと、三つです。すなわち、義とされること、子とされること、聖とされることです。この三つは、父と子と聖霊なる三位一体なる神の秩序にかなうものです。すなわち私たちは審判者である父に義と宣告され、長子となられた御子イエスにあって「アバ、父」と呼ぶ神の子とされ、聖霊のお働きによって聖なる者と変えられていくということです。三位一体の神は、義認においても、子とすることによいても、聖化においても常にともに働き給うのですが、特にそれぞれの特徴的な御業からいうと御父は義認と、御子は子とすることと、聖霊は聖化と深く関係がおありです。しかし、三つはただ論理的な美しさのために並べたものではなく、この三つの祝福は互いに区別されつつ互いに支えあう関係に置かれていて、いずれをも落とすわけには行かないものなのです。


1.神の計画全体の中で−同義語の整理−


 クリスチャンがこの世で神から受ける恩恵は、義とされること、子とされること、聖とされることです。神は、キリストを信じる私たちを、義と宣告してくださいました。神は義とした私たちを、子として神の家族(教会エペソ3:15)のうちに迎えて下さいました。神が私たちを選び、召し、義とし、子として迎えて下さったのには最終的目的がおありです。その最終的目的とは、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にすることです。御子は見えない神のかたちですから(コロサイ1:15)、「御子のかたちと同じ姿」にするとは、すなわち、父なる神に似た者とすることです。子どもが父親を愛していれば、「ぼくもお父さんのようになりたい」と希望するものですが、そのようにキリスト者も子とされたものとして、父なる神に似ることを希望する者となるのです。聖書の他の表現でいえば、それは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶことにほかなりません。御霊の実(カルポス)は単数形で、御霊の実のなかにちょうどみかんのように、愛、喜び、平安、寛容・・・といったふさがみな入っているのです。
 創造との関係から表現しますと、創世記第一章にあるように、本来、人は神の似姿に創造された者でしたが、堕落によってそれを損なってしまったのです。が、神は、キリストにあって私たちを新たに御自身の似姿にかたどって創造してくださるのです。これが神が私たちを召された目的です。
 聖化というと狭義には「一般的用途から神のために聖別すること」という意味になりましょうが、ここでは義とし子とした者をさらに御自身の似姿に新創造される神の御業、換言するとキリスト者の成長という幅広い意味で聖化という用語を用います。


 「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿に定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ9:29,30)


 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられて行きます。これは、まさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)


 「だからあなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)

 「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)

2.義認と聖化の矛盾?


 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪のなかに留まるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。」ローマ6:1,2a 

 「それではどうなるのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そうということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」
ローマ6:15


 この御言葉に示されるように、信仰義認が宣教され始めたときから、恵みの福音と善き業との問題は指摘されていました。もちろん義とされたキリスト者は聖化の道に歩むものであるというのが聖書の主張ですが、義認と聖化の関係の困難な点は次の二つに絞られましょう。第一は、聖化を変に強調すると、律法主義や自己義認に陥ってしまうということです。信仰義認から逆行してしまうのです。信仰義認というのは罪ある者が罪あるままであるにもかかわらず、神がその人を義と認めて下さるということです。ところが、聖化はその人が実質的に清められることです。すると、罪人のままでも義と認められるという信仰義認が事実上意味を失うことになるということです。もし聖化が罪のなくなることを意味しているとすると、義認と聖化は衝突することになります。
 もうひとつの問題は、聖化はその本人の変化を意味することですから、当然体験と関係するのです。けれども、それが極端になると個人主義的、体験主義的、主観的なものに陥ってしまうということです。そして教会をさばき、教会という共同体から離れるものとなるということです。教会の歴史の中で、きよめを強調する人々が独善と教会批判に走り、さらに分裂を繰り返したということは残念ながら事実であります。たとえば、ドナティストのことがあります。
 義認は法的客観的であり、聖化は実質的主観的です。そして、両者ともに一人神の前に立つ自分という意識、個人主義的な面があります。そういう所に、根本的な問題があると思います。


3.子とされること
 両者を結びつけることとして、私たちがあらためて聖書から学ばねばならないことは、「子とされる」という恵みであります。子とされるとは、信仰によって義とされた者が、イエス・キリストにあって神の子としていただくことです。残念なことに、この真理は教理の歴史のなかでは必ずしも重視されてきませんでした。伝統的には義認論の一部として扱われる場合も多く(ベルコフ)、主題的に扱われない場合さえあります(C.ホッジ)。ですが、ウェストミンスター信仰規準(告白、大小教理問答)が義認、聖化とならんで、子とされることをキリスト者がこの世で受ける恵みとして告白していることは、優れた特色です。
 実際、「子とされること」は新約的な恵みの中核にあるものです。ひとつ、聖霊のことを挙げれば、旧約では「神の霊」とか「聖霊」という呼称はありますが、「子とする御霊」というのは新約の特色です。また、神を「父」と呼ぶ例は旧約にもなくはないのですが、非常にこれをはっきりと啓示され、祈りにおいてそのように祈るようにと教えられたのは、御子イエスが初めてです。パウロもまた私たちは「子としてくださる御霊によって、『アバ、父』と呼ぶ。」と言います。
 ガラテヤ3:23−4:7
 これには、法的な側面と実質的な側面との両面があることを聖書は証言しています。法的な側面というのは、養子縁組みをして神の家族に入れられるということです。これは客観的なことです。つまり、本人が子と感じるとか感じないとかいう主観的なこととは別次元に、事実、神の子なのです。その限りでは義認と似通っています。
 しかし、子とされるということは、同時に、実質的な変化を意味します。「子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子供であることは、御霊御自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:16)とあるように、義とされた人は同時に実質的な変化を経験しました。聖書(特にヨハネ文書)は、キリスト者は神から生まれたといいます。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」(1ヨハネ3:9)子とされるということは、こういうわけで、養子とされるということでありながら、同時に、神からの聖霊による出生をも意味しています。
 また、子とされるということは神にある兄弟姉妹、神の家族に迎えられるということを意味します。家族というのは、単なる会社組織や軍隊のような団体とは違います。会社では社員にはみな「かけがえ」があります。社員や兵士は機械の部品みたいなものです。誰かが退職してポストがあけば、別の人をそこに入れれば済むことです。軍曹が一人戦死すれば、伍長をそこに据え直すだけです。そうしてだれも怪しみません。けれども、家族においては一人一人がかけがえのない存在です。お兄ちゃんが家出したから、同じ年格好の人を据えましたなんてことをしたら、だれも怪しまないというわけにはまいりません。全体的でありながら、個々が大事にされるというのが家族という集団の特色です。それはキリストのみからだとしての教会における部分と全体の関係と同じです(1コリント12:25,26)。
 以上まとめると、子とされるという恵みには、次のような特徴があります。法的客観的かつ実質的主観的であること。共同体的(教会的)であること。これらのことが、義認と聖化の矛盾と考えられたことを解決するのです。


4.子としての聖化


 ある人のお陰で、法的に義と宣言され監獄から釈放になった人が、それ以後、そのお世話になった人の奴隷として主人のもとに仕えるようになるとします。彼は、罪人である自分を義としてくださった主人の恵みを感謝して生活するでしょう。しかし、彼が奴隷であるかぎり、彼の行動にはどうしても恐怖があります。「再び恐怖に陥れるような奴隷の霊」を持っている状態です(ローマ8:15)。子と奴隷の違いとはなんでしょう。それは、どんなによい奴隷であっても、その働きによってのみ評価されるということです。ですから、「俺の働きが悪ければ、御主人はいずれ俺を追いだしてしまうかもしれない。」奴隷は、そのように恐怖を持ち続けねばなりません。ですから、彼の善き業はともするとご主人の機嫌をうかがう律法主義的なものになりがちです。これは聖化を変に強調した場合、律法主義が自己義認に陥るという問題をたとえたものです。
 聖書は確かにキリスト者を神の奴隷として描写することがしばしばあります。私たちは神の所有であり、神は絶対的な主権を私たちに対して持っておられるからです。しかし、もしキリスト者が神の奴隷としてしか神の御前における自己を意識できないとすれば、彼は新約の恵みを十分に味わっているとは言えません。もし奴隷としての自己意識しかないとすれば、彼の心からは行いによって裁かれるという恐怖が去ることがないでしょう。しかし、新約聖書は、キリスト者を神の奴隷としてばかりではなく、神の子どもであるというのです。放蕩息子が帰ってきた時、彼は「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」と言おうとしますが、父親は最後まで言わせず、彼に相続人たる息子の印である指輪をはめさせます(ルカ15:19と22比較)。
 奴隷と比べて、子とはどういうものでしょうか。父はその子に仕事を与えます。子は将来の相続人ですから、奴隷に任せるよりも、もっと大きな責任を子には与えるはずです。なぜなら奴隷の場合はずっとその仕事をしていればよいのですが、子の場合は将来は相続人としての大きな栄誉と同時に責任もあるからです。実際、新約における神の求めは旧約聖書よりも高いものです。たとえば、エペソ4:25−32を見てみましょう。十戒は偽証を禁じましたが、新約は単に偽証を禁じるのみならず真実を語れと命じます。旧約は盗むなと言いましたが、新約は盗みを禁じるのみならず困っている人に施しをするために働きなさいと命じます。旧約の律法が1ミリオン要求するならば、新約の喜ばしい福音は2ミリオンを要求します。それはしかし、縛るためではなく、いのちを解放するためです。けれども、神の子は恐怖におののく必要はありません。なぜなら、失敗しても父は子を根本的にはその働きによって評価し、家から追い出すかどうかを決めたりしないからであります。父は、子を見る時、その働きももちろん評価しますが、もっと深いところでその存在を喜んでおられるからです。父親は子どもを一人前にするために時には、厳しく訓練することもありましょう。しもべの受ける訓練よりもむしろ厳しいかもしれません。けれども、子は父の愛を知っていますからより大胆に神の御心を行うことができます。


5.聖化は教会的なこと

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためで す。」(ローマ8:29)
 子とされたということは、御子を長子とする神の家族に入れられたということです。神の家族の一員として、その後の具体的な聖化の歩みというものはあるのです。父なる神が義とした者を子としてイエスを長子とする共同体に招かれたのは、義とされた者が神の家族の中にあって成長して行くことを御心としておられるからです。
 本来、人間は創造の初めから教会的存在として造られました。それは神を愛し、互いを愛するという目的をもった存在として創造されたという意味です。人間に与えられた戒めは、全身全霊をもって神を愛せよということだけではなく、あなたの隣人を自分と同じように愛せよということなのです。ですから、私たちの聖化は、この神の家族という教会という共同体のなかでこそ具体化されていくものなのであります。神を愛し、主にある兄弟姉妹を愛するというところに、私たちの聖化の実が実るべきであります。それから広がっていくのです。教会を自ら離れた人の信仰は独善に陥ります。
 聖化は確かに、一人一人の内になされる聖霊の御業ですが、同時に、ただ単に個人のことではなく教会的なことなのです。聖化というのは、単にクリスチャン個人のきよめではなく、教会としてのきよめと言わねばなりません。「私は、あの罪を犯さなくなった。この罪を犯さなくなった。きよめられた。」というのも聖化の重要な面ではありますが、それでは不十分なのです。主を愛し、主にある兄弟姉妹を愛するという時、そこに聖化の実があると言って良いのです。キリストは教会を清められたと聖書は言っています(エペソ6:25−27)。


祈り アバ、父よ。こんなにも親しくあなたを呼びまつることができるとは、なんという恵みでしょうか。罪の中にうごめくうじ虫に過ぎぬ私を、義と宣告してくださったばかりか、今や、子として兄弟姉妹のうちに加えて下さいました。今、この身をあなたにお委ねします。どうぞ、御国の相続人としてふさわしく、訓練してください。