苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

下ろすべき重荷、負うべきくびき

マタイ11章25-30節

2017年2月19日 苫小牧伝道礼拝

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

1. 主のもとに下ろすべき重荷

 その神の御子イエスはおっしゃいます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしが休ませて上げます。」このように言われると、多くの人が「私に言われているなあ」と感じるようです。みんな重荷を負って疲れているのですね。休みたいなと思っている。あなたもそうかもしれません。人は何につかれているのでしょうか。
私の母は49歳で洗礼を受けました。イエス様を信じて何が変わったの?と母に聞いたら、「わたしは神様がいることはずっと小さいころから信じていて、いろんな苦労をしていても見ていてくださるんだということを支えにしていたけれど、その神様は遠くにいらして腕組みをして見ていらっしゃるんだと思っていたんよ。だから、神様が見ていてくれると思っても、自分でなにもかも心配しないといけないと思っていて、いつも肩がこって、頭のうしろが重かった。でも、イエス様を知ったら、その重荷を下ろしていいんだとわかったんよ。」と話していました。
 そして、もう一つ質問しました。「お母さんは自分がどういう点で罪人だったとわかったの?」と。すると母は「なんでもかんでも自分で頑張って来たんだということが、自分の傲慢という罪だったということがわかった」と言っていました。自分で頑張らねばならない。自分が頑張るしかない。それが正しいことだと思っていた、そのことが神様の前では傲慢という罪だったのだと。ほんとうは神様にいのちを与えられ、人生のすべての必要を日々与えられ生かされているのに、神様に感謝せず自分で頑張っていると思っていた、それが罪だとわかったというのでした。
 「人の一生は重き荷を負いて長き道を行くようなもの」と言われるように、人生に重荷はつきものです。でも、イエス様の前に下ろすべき重荷もあるのです。イエス様の前に下ろすべき重荷とは、罪という重荷です。
 けれども、罪ということばを聞いても、「そんなの私と関係ない。私はまじめに生きてきたから。」と思う人もいるでしょう。窃盗とか殺人とか姦通とか偽証とかいう犯罪もたしかに罪ですが、聖書がいう罪とは、もっと根本的な問題です。これらすべて犯罪の根っこにある心の中の「悪い考え」を生み出すもののです。
エス様はおっしゃいました。「人から出てくるもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7章21,22節)
 何か罪を犯すとき、まず心の中には悪い考えが浮かびます。「あんな奴は死んでしまえばよい」とふと考え、それを心に蓄え続けると殺人に至ります。その悪い考えがすでに神の前では殺人です。自分の妻以外の女性に肉欲を感じ、それを暖め続ければ姦通にいたります。その悪い考えはすでに神の前に姦通です。人の成功をねたんだりすれば、それはむさぼりの罪を生み出すことになります。自分の人生は自分で切り開いて来たから、自分には神様はいらないという悪い考えは「高ぶり、愚かさ」という罪です。そして、罪というのは、どんな善人らしく振舞っている人の中にも例外なく潜んでいる利己的な性質なのです。これを原罪といいます。
 罪はどのように人を苦しめるでしょうか。罪は人との交わりを破壊します。妬んだり、欺いたり、裏切ったり・・・ということになります。家族同士でありながら、陰口をたたき、争いあって、憎しみを持ち続けている人もいます。そして、疲れ果てています。なんと不幸で悲惨なことでしょうか。
 罪は自分自身を苦しめます。あんなことしなければよかったと良心の呵責にとらわれて、悶々として、ついには自分を赦せないとして、自分の命を絶ってしまう人までもいます。また、神様なんかいらない、自分が頑張らねばという高ぶりの罪は人を疲れ果てさせてしまいます。
 もっと重大なことには、罪は神との断絶をもたらします。造り主である神と断絶すると、人は生きる目的がわからなくなります。人生がむなしくなります。生きている意味も、生きる力も失われます。しかも、最後には、死後にさばきを受けたとき、聖なる神が住まわれる天国にはいることができません。そうです、罪の問題が処理されない限り、永遠のほろびの場所で過ごさざるを得なくなります。
罪は、すべての人を根源的に苦しめている呪いなのです。人は、自分自身の罪に呪われ、そのままでは永遠に滅びてしまいます。


2.わたしのところに・・・・イエス様は驚くべきお方です

 ところで、そういう罪の重荷を背負っている私たちに対して、イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」と驚くべきことをおっしゃいます。誰がこんなことを言えるでしょうか。普通、そういう人に来られたら、困ります。面倒見切れません、と思うでしょう。私だって重荷にあえいで疲れているんだ、と。でもイエス様はそうおっしゃいます。イエス様は、一体全体どういうおかたなのでしょう。
 25節と26節の、イエス様が神様に向かって発せられた祈りのお言葉を読むと不思議なことがいくつもあります。

 まず、「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」とおっしゃいました。
 このようにイエス様は天地万物の創造主である神のことを「父よ」と呼んでいらっしゃいます。イエス様は創造主である神の実の子です。たしかに私たちクリスチャンも、天のお父様と祈っていますが、それはイエス様にあやかって、そういう呼び方をしているのであって、私たちは創造主の実子ではありません。養子です。でもイエス様は、天地万物の創造主の実の息子さんなのです。
 イエス様が天地の主と特別の関係にあることは、26節に進むともっとはっきりとわかります。

「11:26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」

 「すべてのものが、わたしの父からわたしに渡されています。」とイエス様はおっしゃいました。その意味は、全宇宙、月星太陽、この地球と地球上のすべての生きとし生けるものを、天地万物の造り主が、イエス様に渡しているということです。他の箇所の表現でいえば、「天においても地においても、私にはいっさいの権威が与えられています。」というおことばです。
 あなたが一緒に生活をしている人。たとえばあなたの夫が、かりに「わたしの本当の父は、万物の創造主です。私は、この全宇宙を創造主である父から委ねられているんだ」と言ったら、どう思うでしょうか?「うーん、この人、頭おかしくなったらしい」と思うでしょう。
 けれども、寝食をともにしているお弟子さんたちは、イエス様の祈りを聞いて、「この人は誇大妄想狂の変人じゃないか。」となぜか思いませんでした。不思議なお方だなあとは感じ、このイエス様のことを主と呼び、従って行ったのです。イエス様と言うのは、私たちと同じようにご飯も食べればおなかもすき、疲れて眠り、いびきもかく紛れもない人間でした。けれども、そのお言葉には不思議な力があって、神様の御子であると言われるならば、確かにそのようだと認めざるを得ないご人格だったのです。イエス様はそういう不思議なお方でした。世世の教会は、イエス様はまことの神にして、まことの人であられると信じ告白してきました。


 29節のことばはどうでしょうか?
「わたしは心優しく、へりくだっているから、わたしから学びなさい」
 も奥さんたち、あなたのご主人があなたに向かって「私は心優しくへりくだっていますから、君はぼくに学びなさい」と言い出したら、どうでしょう。笑うでしょうか、それとも何いってんのよ、と怒るでしょうか。謙遜な人は、自分のことを謙遜ですなどとは言わないからです。けれども、イエス様は当たり前のようにご自分のことを心優しくへりくだっていますよ、とおっしゃったのです。しかも、です。お弟子さんたちは、イエス様を師として仰ぎ、イエス様に従っていきました。イエス様が心優しくへりくだっているとおっしゃったら、確かにその通りだと彼らは実感し、心に刻み、それが聖書に書き残されました。そしてイエス様のために、最後にはいのちをもささげていったのです。イエス様というお方は、そういう驚くべきたった一人のお方なのです。
 つまり、弟子たちが出会い寝食をともにしたイエス様からは、万物の創造主である神のひとり子としてのご人格がにじみ出ていたのです。後日、弟子のペテロは手紙の中で次のように証言しています。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」(1ペテロ2:22)

 寝食を共にした三年間を振り返って、あのお方はまことに罪のしみ一つないお方だったなあと言っているのです。あなたは、そういう人をほかに一人でも知っているでしょうか。
また、弟子のヨハネは後日こう証言しています。

「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

主イエスのご人格からは、神の御子としての栄光があふれ輝いていたのです。

 この神の御子が「心優しくへりくだ」られたのです。それは、万物の創造主の御子であるイエス様が、人となってこの世に生まれてくださったこと、そして、十字架で私たちの罪の重荷をになうために苦しみの果てに死んでくださったこと、そして三日目によみがえられたことを意味しているのです。
ピリピ人への手紙2章に次のようにあります。

「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

  そのイエス様が、あなたにおっしゃるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしが休ませて上げます。」ここでおっしゃる重荷は、イエス様が天の栄光の御座を捨てて、この罪の世に人となって来られた目的と結びついたことです。イエス様が二千年前にこの世に来られた目的は、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従」うためにほかなりません。イエス様が私たちを救うために十字架にかからなければならなかったのは、私たちを罪とその結果としての永遠の滅びから救うためでした。私たちの罪に対する永遠の呪いを、あの十字架において身代わりに受けるためでした。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」という主イエのことばを言い換えれば、「罪の重荷を背負って疲れ果ててしまった人は、わたしのところに来なさい。そして、私のところにその罪の重荷を下ろしなさい。わたしがあなたの代わりに背負ってあげよう。」とおっしゃるのです。
確かに、あなたにも罪があります。そのままでは永遠に滅びてしまいます。けれども、神様はあなたを惜しまれました。あなたをなんとしても救いたいと願われたのです。そこで、ひとり子イエス様を人としてこの世に遣わしてくださいました。御子イエスは、あの十字架の上であなたの罪の重荷を引き受けて永遠ののろいを身代わりとなって受けてくださったのです。
 ですから、あなたにとって大切な決断は、自分の罪を神様の前で認めることです。そして、イエス様に自分の罪の重荷を下ろしましょう。あなたは、神の前に永遠にゆるされます。


3 主と共に担うくびき

 そして、イエス様を自分の救い主として受け入れて罪を赦されて、歩み始めた者たちには次のようにおっしゃいます。クリスチャン人生とは何なのかということです。

「11:29あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 くびきというのは、牛とか馬が荷車を引くときに首につけるものです。イエス様とくびきを一つにするということは、イエス様といっしょに、同じ方向に歩んでいくのです。そうして、イエス様を一緒に荷を担っていくのです。クリスチャンとは、キリスト・イエス様とともに生きる人のことを意味しています。
 イエス様は、罪の重荷を下ろした私たちに対して、その罪の重荷に代えて、「わたしといっしょに担って行こう」とおっしゃるものがあります。それは、負いやすい軽い荷物なのだそうです。それは、<愛する。真実な愛に生きる。>ということです。
この愛の冷えた時代にあって、希望のない時代にあって、イエス様を信じ、諦めないで愛を実行していくこと、それが私たちにイエス様が負わせられるものです。
愛しても、愛されないことがあるでしょう。
それでも、愛するのです。
でも、そのあなたは一人でその重荷を負っているのではありません。イエス様がいっしょに負ってくださるのです。そうして、イエス様が父を愛し、人を愛したように、イエス様とくびきを一つにしている私たちも愛する者として生きていくということです。そうしてこの冷たい時代の中に、神の家族を作り上げていくことです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
ヨハネ15章12節