苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「猫に小判」となるな

マタイ21:23−32


●神の御子としての権威によって

 エルサレムに入城なさって以降、イエス様は神殿(宮)に出かけて、宮で人々を教え、病の人は癒してやりました。すると、しかつめらしい顔をした祭司長、長老たちがやってきて、イエス様に詰問しました。

21:23「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

 祭司長、長老たちは、イエス様が昨日、神殿に入って来られると、いきなり、そこで両替商やいけにえの動物を売って商売をしている人々を怒って追い出したこと、また、今日は神殿に入ってきて、自分たちの許可も得ないで人々に教えていることを怒っているのです。「この神殿は、われわれ祭司・長老たちが取り仕切っている場所である。昨日はズカズカ入り込んできて、商売人たちに乱暴狼藉を働いてわれわれの神殿経営にけちをつけたり、今日は、民に教えたりしているが、われわれの許可も得ないで、なにを勝手なことをやっているのだ?いったい、あなたは誰の権威をもって、こんなことをしているのだ?われわれの権威を無視して、あなたはわれわれよりも偉いのか?」と言っているのです。

 これに対して神の御子であるイエス様がずばり答えてしまうならば、次のようになるでしょう。「わたしの父がこの神殿の家主であり、私はその息子である。わたしは父の権威のもと、また神の御子としての自分自身の権威においてこれらのことを行ったまでのことだ。父はあなたたちを祭司として立てて、この神殿の管理をゆだねてきたが、あなたたちは、父とわたしのこの神殿を、私利私欲のために商売の家にしてしまい、礼拝にやって来た人々、特に異邦人たちが落ち着いて礼拝できないようにしてしまっている。あなたたちが牧者としての務めを果たしていないから、わたしがあなたたちの神殿運営がまちがっていることを正し、羊飼いのいない羊たちを養ったまでのことである。あなたたちに文句など言われる筋合いのことではない。あなたたちこそ悔い改めるべきだ。」と。
 イエス様は、神の御子としての権威をもって、この、葉っぱばかり茂っているけれど、実のないイチジクのようになり果ててしまっている神殿運営を糾されたのでした。


●主イエスの返事の意図

 でも、この時にはイエス様はそのようには返答をしないで、次のように彼らに質問を返されました。

21:24 「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。 21:25 ヨハネバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

 ズバリと真理を答えないで、祭司長・長老たちの質問に質問をもって応じられたイエス様の意図はなんでしょうか。イエス様の質問は、「ヨハネは何の権威によってバプテスマを授けたのか?」という意味のことばですから、やはり権威をめぐっての質問です。その預言者の教えや行動が有効であるかどうかということにせよ、バプテスマが有効であるかどうかということにせよ、それは何の権威に由来してなされたかということにかかっています。ヨハネバプテスマが有効であるとするのは、彼が神の遣わした預言者であったからです。
 この質問に対して、祭司長たちはどう応じたでしょうか?

すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。 21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネ預言者と認めているのだから。」

 祭司長たちは、「ヨハネが神様から権威を授けられた預言者であったと認めたら、イエスから『では、なぜヨハネを信じて、悔い改めなかったのか』とやっつけられて、また民衆の前で恥をかかされる。でも、ヨハネが勝手に人間として教えていたのだ、と答えたら民衆が私たちを非難するだろう。群衆はヨハネ預言者と認めているのだから。」ということで、困ってしまいました。彼らの発言と行動の基準は「何が真理か」ということではなく、「我とわが身が無事であるように、恥をかかぬように」というご都合主義、保身でした。それで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った」のでした。

すると、イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」とおっしゃいます。イエス様は人の顔色を見て、言葉を左右なさるようなお方ではありません。では、イエス様はなぜこのように彼らに対して、ご自分の権威について話すことをなさらなかったのでしょう?イエス様の態度は何を意味しているのでしょう? これはとても大事な問いです。というのは、私たちもイエス様から真理を語ってもらえる場合と、そうでない場合があることを意味しているからです。
エス様が、ある人々に対してあえて真理を語らない場合とはなんでしょうか?それは、「豚に真珠はやらない。」「犬に聖なるものは与えない。」ということです。祭司長たちは、宗教的な権威であり、イスラエルでは政治的指導者でもありましたが、彼らは真理には関心のない人々でした。という意味は、たとえ真理を聞いても、自分に都合が悪ければ、その真理に従うつもりのない人々でした。ヨハネが神の遣わした預言者であるということに気づいていても、彼らはヨハネのことばを信じて悔い改めようとしませんでした。また、そのくせ「ヨハネ預言者ではないのだ」と発言して、その発言によって群集の信用を失うこともまた避けたいと考えているのが祭司長、長老たちでした。つまり、彼らはただ保身だけを目的として、自分たちのことばや行動や態度を適当にしているだけの人々でした。真理を聞けば、犠牲を払うことになるとしてもその真理に従うという覚悟が彼らにはなかったのです。主イエスの目から見ると、彼らは聖なるものを前にした犬、豚に真珠、猫に小判でした。
 当時、祭司長、律法学者たちは異邦人を豚だとしたり、収税人たちを犬と呼んだりしていたのですから、皮肉なことです、心の奥底まで見通されるイエス様の目からすれば、彼らこそ豚であり犬なのでした。祭司長・長老といった、恐らく最高議会議員でもあった彼らです。一般化していえば、立派な肩書きを持てば持つほど、それを守る必要が生じて、真理がわからなくなり、真理に従えなくなる危険があるぞという警告です。

 とはいえ、肩書きのある方であろうと、そうでなかろうと、もちろん他人事とはいえません。あなたの心には主イエスのことばが届いているでしょうか。あなたには、主イエスのおっしゃることばがわかるでしょうか?主のことばを聞いて、心が燃えるでしょうか?私たちは聖書を読んでいて、その説き明かしを聞いていて、はっきりと御心がわかるときがあり、また、あるときには何もわからないなあというときがあるのではないでしょうか。みことばが、ぐいぐいと神様からのことばとして胸に迫ってくるというときと、なんだか聖書がただの小難しい本でしかないように感じたり、三軒先のほうで話しているように聞こえることがあるのではないでしょうか。どうして、そのようなことが起こるのでしょう?
 みことばは主イエスの御霊とともに働きます。みことばを読む時、みことばの説き明かしである説教を聴くとき、主イエスの御霊が私たちの、主に対する心の態度に応じて、わかるようにしたり、わからないようにしたりしているのです。あなたが「御言葉を受け取ったならば、これに従います」という信仰をもってみことばに臨むならば、御言葉はいのちある神の言葉としてあなたに迫り、あなたを取り扱い、あなたを新しいいのちに満たします。しかし、「もし従ったらああなるし、従わなかったらこうなるから、とりあえず、よくわからないなあということにしておこう」という保身的な心の態度でいるとしたら、主イエスの御霊はあなたに対して、「豚に真珠、猫に小判だなあ。わたしもあなたがたには話すまい」とおっしゃるのです。
 

●譬え

 主イエスはたとえ話をもって祭司長、長老たちに話し続けられます。イエス様は一般的な庶民たちに神の国の福音を一生懸命に話していらっしゃいます。それどころか、取税人や遊女といった人々に、神の愛を説いてこられました。しかし、祭司長・長老たちの質問に対してははぐらかされました。祭司長や長老たちは不満げな顔をしています。そこで、イエス様は、続いてたとえ話をなさいます。

21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。
 ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
21:29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。
21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。 21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

 主イエスが、ぶどう園の主人で意味しているのは神様、兄で意味しているのは、無論、祭司長・長老たち、弟で意味しているのは取税人や遊女です。父に依頼されて、兄は「はい。わかりました。」と言いますが実際には従いません。彼らは神殿と神のことばを託された専門家です。祭司長たちは神殿を「成功」させましたし、律法を詳しく知っている玄人でした。しかし、主の御目から見ると、彼らは葉っぱばかり茂ったいちじくでした。神殿には目には見えないけれどマモンという偶像が祭られ、律法において最もたいせつな公正とあわれみが欠落していたのです。そこで、神様はヨハネ預言者としてつかわし彼らに警告を与えたのですが、彼らはメンツを重んじてヨハネを信じず、悔い改めなかったのです。
 それに対して、弟は最初、父のことばには従いませんが、やがて心を改めて従います。弟は取税人、遊女たちはを指します。彼らは、たしかに神の前に罪を犯した人々です。ですか、バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。」と荒野で叫んだら、彼らは神様の前に恐れおののいてそれぞれ罪を悔い改めたのです。だから、主イエスは、庶民、取税人、罪人には熱心に神の国の福音を話されたのです。


結び

神の教えについて肝心なことは、
 第一に、「自分は神のことばは、もうわかっている」と思わないことです。神の前では自分は常に初心であることです。確かに聖書を3,4回通読すれば、どこに何が書いてあるかという程度のことは知識としてわかるようになるでしょう。教会に毎週主の日、十年も通っていると、大体、頭の知識としては概要はわかるようになるでしょう。しかし、神のことばを聞いて「はいはい、わかってますよ。」というような態度は、あのたとえ話の兄の態度であり、祭司長たちの態度です。神に関する知識があることと、生ける神を知っていることはちがうのです。

 第二に、へりくだった心で神のことばを聴いたならば、心の中で言い訳や立派な理屈を言うのをやめて、悔い改めることです。悔い改めて、あなたの具体的な生活のなかで、公正とあわれみの実を結ぶことです。あなたの教会生活で、あなたの家庭生活で、あなたの仕事において、あなたの学校生活の中で、神への愛と隣人への愛の実を結ぶことです。

そういう人に対しては、主イエスは聖書と御霊によって、いのちのことばを語り続けてくださいます。