苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神と相撲を取る

創世記32章
2017年2月19日 苫小牧夕拝

32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。
32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。

 いよいよ約束の地に戻ってきました。ヤコブは追って来た叔父ラバンとの問題に決着をつけたものの、それ以上の難題は兄エサウとの再会でした。20年前、兄をだまして祝福を奪い取ったことで、兄は自分のことをひどく恨んでいるであろうとヤコブは恐れていました。ヤコブの性格からすれば、20年たって恨みを忘れることなど考えようがなかったので、兄もきっとそうだと思ったのです。
 そこで、ヤコブはいかにもヤコブらしく、策をめぐらします。一つは兄のご機嫌をとることでした。4,5節のへつらいのことば。エサウのことを「ご主人」と呼び、自分はしもべであるとへつらっているのです。

32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。 32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」

ところが、兄エサウは400人もの大人数で自分を迎えに来ているという知らせが入りました。

32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

そこでヤコブは恐れを抱いて、陣営を二つに分けます。8節。

32:8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。

それから、ようやくヤコブは、「ああ、そういえば、祈るのを忘れていた」ということなのか、主に向かって祈りました。9節から12節。

  32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた【主】よ。
32:10 私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。
2:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」

しかし、これは中途半端な祈りでした。ヤコブはなお不安だったので、エサウへのご機嫌とりの贈り物を贈り続けました。13節から21節。

32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。
32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」
32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか』と言って尋ねたら、
32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります』と答えなければならない。」
32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、
32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。
32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。

ヤコブはなぜエサウへの贈り物をいくつにも分けたのでしょうか。二つ目的があったと思われます。一つは、何度も何度も兄のご機嫌をとるためです。一度にドバっともらうよりも何度ももらったほうがたくさんもらった気がするということでしょう。もう一つは、仮に兄が途中で贈り物を拒否して攻めてくる場合、贈り物の全部を取られないで済むからでしょう。とにかく、ヤコブは策略家です。そして、自分は一番後ろにつくのです。兄が攻撃してきたら、自分は一族のものたちを盾にして逃げようという計画でした。
 しかし、これほどまで手練手管を尽くしてもなおヤコブは恐れていました。そこで、真夜中、ヤボクの渡しに一人いるヤコブのところに不思議な人が現れました。22節から32節。

32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

 ヤコブに現れた不思議な人は、神であったようです。彼は「顔を顔とを合わせて神を見た」と言っていますから。これはいわゆる受肉以前のロゴスでしょう。エデンの園を歩き回られる主の声、また、マムレの樫の木の下にアブラハムを訪れた、あのお方です。
 この神とのお相撲は彼の祈りを象徴的にあらわしているという解説があります。たしかに、この箇所から祈りについて教えられるのは事実ですが、実際にお相撲を取ったことは、31節に相撲の結果、彼が神に打たれた足を引きずっていたことからあきらかです。一生懸命に祈ったら、股関節が脱臼したという話は聞いたことがありません。神と相撲を取ったことは事実であって、そのヤコブの相撲のしつこさが祈りのレッスンになっていると見るべきところです。
 人間的手段をさんざん尽くしてきたヤコブでした。「ああ、自分はいつも神に祈るより、委ねるより、人間的な手を出してきてしまったのだ。」と彼は気づいて、絶体絶命の窮地に立って、神と格闘するのです。

私たちは2点、この箇所から学びたいと思います。ひとつは、神の祝福を求めて止まない、ヤコブの情熱です。神が去らせよといっても祝福してくださらなければ、決して去らせないのです。ヤコブは強かった。なんと神さえも勝てそうにないと思われた(25節)とあるのは興味深いところです。私たちはこれほどの期待を神にしているでしょうか。祝福をいただかない限り、去らせはしません!と神にしがみつく情熱。パッションを学ぶべきです。祝福をもとめてやまないヤコブ。安易に「みこころのままに」という怠惰な従順な祈りを神は喜ばない。静寂的瞑想は汎神論者のものです。生ける人格である神を前にした祈りは、時に格闘的なものなのです。

学びたい第二点。それは、神がヤコブの股関節を打たれたこと。
そして、神はヤコブのもものつがいを打った。もものつがいとは股関節です。人間のからだの筋肉の中で最も強いのがももの筋肉です。主は、ヤコブのもっとも強いところに触れ、彼の股関節が脱臼したのです。そして、彼は足をひいて歩かねばならなくなります。いつも自分はここを神に撃たれたのだと意識して暮らすようになるのです。
神の人が、神の人として用いられるためには一番強いところを打たれて、無力になることが必要です。ヤコブは有能な人でした。才覚に満ちていたし、情熱にもあふれていました。強い兄を出し抜いてでも、祝福を奪い取りました。古だぬきのような叔父ラバンさえも騙すようにして、自分の取り分を獲得しました。今、かつて騙した兄エサウに再会するにあたっても、兄のご機嫌をとろうと手練手管を尽くしました。ヤコブはやり手の人です。しかし、その有能さが、自我の強さが、神の人として用いられるには、まず砕かれなければならなかったのです。
神に決定的に打たれた後、神の人は、何をしても自信がなく、神様これで大丈夫でしょうか?自分勝手に進んできたのではないでしょうか?と心の中で問うようになります。周囲の人は、彼を自信に満ちた人と見るかもしれませんが、実はけっしてそんなことはないのです。その魂は深い傷を負っていて、その古傷のところで、いつも神を意識せざるをえないのです。主の器は砕かれてこそ、キリストの香りを放ちます。ナルドの壷のように。