苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自分にしてもらいたいことを

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」マタイ7:12


 この主イエスのことばは、一見すると、「己の欲せざることを、他に施すなかれ」という孔子のことばに似ている。むしろ、孔子の教えのほうが、「おとな」らしく見えるかもしれない。「自分にしてもらいたいこと」など、人によって異なるのだから、それをほかの人にしてやると、かえって迷惑・余計なおせっかいになるかもしれないからだ。
 孔子のことばは、多くの日本人は小さいころから言われる「世間に迷惑かけてはいけない」ということばに通じる。この考え方からいえば、世間に迷惑をかけるような人々、社会に迷惑をかけるような人々の存在は、許しがたいのである。だから、日本には福祉の土台となるスピリットがない。障碍者生活保護を必要とする貧しい人々、みな他人に迷惑をかけている、と捉えるからだ。最近の政治家たちが、危険な地域に出かけて生命の危険にさらされているボランティアやジャーナリストに向けて投げつける「自己責任」ということばに、実は多くの日本人が共感を覚えているのは、「世間様に迷惑をかけるな」といって育てられたからであろう。「自己責任」ということばは、一見、西洋的な主体的思想を背景にしているように見えるが、実は、そうではない。「他人に迷惑をかけるな」という意識は、江戸時代的にキリシタン摘発のために向こう三軒両隣が相互監視関係にあったことの名残ではないだろうか。
 福祉という働きのほとんどは、明治になってキリスト教徒たちが始めたものだと大学時代の教養課程の講義で学んだことがある。おせっかいかもしれないし、かえって嫌われるかもしれないが、自分にしてもらいたいことを、ほかの人にもしたい、しようという主イエスの積極的な愛の行動と教えがその中核にあった。
 人様に迷惑さえかけなければよい、というような消極的な最低限をもとめる生き方と、もしかしたら的外れかもしれないけれど、自分にしてほしいことを隣人に積極的に行う生き方。実は、大いに違っている。後者の生き方だけが、暗い世の中を明るくする力がある。主イエスは、神の御子でありながら、頼まれもしないのに、天の御座を捨てて人となってこの世に来られ、罪のなかに打ちひしがれている私たちを救うために十字架の苦しみをなめてくださった。究極のおせっかいかもしれない。だが、それが愛なのだ。

「あなたがたは世の光です。」