マタイ24:32−42
1.いちじくの木から
24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
主イエスはエルサレムとイスラエル滅亡の前兆と、世の終わりの再臨の前兆について二重の預言をなさいました。そうして「いちじくの木からたとえを学べ」と言われます。謎めいたことばですが、いちじくという木がイスラエルを象徴する植物であることを知っていれば、難しい話ではありません。冬の間葉っぱがなくなっていたイチジクの枝が、柔らかくなって葉が出てくると夏が近いとわかります。そのように、紀元70年エルサレム崩壊からずっと歴史の中から消えてしまったイスラエルという国が復興してくるのを見たら、最後の審判、主の再臨が近いという意味です。
エルサレムが崩壊して後、エルサレムは異邦人に踏み荒らされてきました。しかし、その異邦人の時が終わると再臨が近いしるしです。
ルカ21:24 「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」
実際、2000年近く亡国の民としてさまよっていたユダヤ人たちは、先の大戦後1948年にいろいろな大国の思惑からくる経緯はあったにせよ、とにかく国家として復興しました。それは政治的な復興であって、彼らがイエス・キリストに立ち返ったという霊的な復興を意味しているわけではありません。パレスチナでは残虐な戦争が絶えません。しかし、とにもかくにも「いちじくの枝が柔らかになって、葉が出てきた」ということです。エルサレムが異邦人に踏み荒らされる時は終わったのです。
今後、異邦人宣教が完成すると、最後に、福音は神の民イスラエルのところに戻ってきて、イスラエル民族が多数回心してキリストに立ち返ります。主の再臨と世界の審判の直前のときです。ローマ書11章
11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
整理します。
①私たちが知っている歴史の中では「異邦人の時」が終わってイスラエル国は政治的に復興し、その意味でエルサレムが異邦人に踏み荒らされるときはすでに終わりました。
②次に起ころうとしていることは、異邦人宣教の完成です。
③それが完成するならば、イスラエル民族のなかにイエスこそキリストであると信じて救われる人々が多数起こります。
方々の地殻変動に地震、にせキリストの出現、戦争と戦争の噂、世界中で頻発するキリスト者の迫害ということも考え合わせて、今や主の再臨が間近になっています。
2.この天地は滅び去る。しかし、・・・
主が再び来られ最後の審判が行われるとき、この天地は滅び去ってしまいます。
仏教であれ神道であれバラモン教であれ、自然宗教の世界観では、人間はいかに栄えていても滅び去るけれども、天地は悠久のものであるということになっています。ですから、芭蕉も「青草やつわものどもが夢のあと」と「青草」つまり自然は悠久だけれど、人間のわざは夢のようにはかないと嘆いたのです。 しかし、聖書によれば、神のことばで造られた天地は、神が「この天地があるように」というかぎりにおいて天地は存在するけれど、神のことばが「この天地は終わりである」と発せられるならば、この天地はその歴史を終え、最後の審判の後、新しい天地が創造されるのです。
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
黙示録によれば、白い御座が出現し最後の審判が行われる直前、「地も天も逃げ去った」と記されています。そうして、いのちの書が開かれてひとりひとりが神の前に出て、その生前の心の思いと言葉と行いとについて神の前で審判を受けることになるのです。
黙示録20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
永遠であるのは天地ではありません。この天地は終わりの日に滅び去るのです。滅びることのないのは、主イエスのおことばです。やがては滅び去るものに頼っていても、むなしい結果となるだけです。永遠に滅びることの無い主イエスのことばにこそ信頼して生きることが肝心です。
3.ノアの日のように堕落した時代
主イエスは再び来られて、世界を審判なさいます。しかし、その日はいつであるかは誰も知りません。50年後でしょうか?10年後でしょうか?それともあさってでしょうか?それはわかりません。ただ父だけがご存知です。
24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
しかし、確かにその日は着実に近づいています。その日はノアの大洪水のようにやってきます。かつて神様は人類の歴史をひとたび大洪水をもって断ち切られました。それは、世界の終わりのときに起こる出来事の予型です。
24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
ノアの大洪水の前、世界はどんな状況でしたか?
創世記6:11「 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」
とあります。人々は「神の裁きなどあるものか!」とあざけり、神が定めた人間としての「道」を乱していたのです。主の再臨の前にもノアの時代と同じような社会風潮になります。
2テモテ3:1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。 3:2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、 3:3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、 3:4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、 3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。
恐ろしいのは5節の「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する」ということばです。この終わりの日の風潮はクリスチャンの人々を指しているのです。主の日に教会では祈り深いクリスチャンらしく振舞っているけれど、月曜から土曜日、家では滅茶苦茶な人が出てくるのです。
また、ペテロの手紙第二の3章によると、終わりの日、多くの人々は自分の欲望にしたがって生活し、かつてノアの大洪水のさばきがあったことを忘れ、キリストの来臨と最後の審判などあるものかとあざけります。2ペテロ3章。
2ペテロ3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。 3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
今、すでに、そのような時代になっているのではありませんか。大洪水についていえば十九世紀前半まで欧米ではノアの大洪水があったことを前提とした地質学が行われていましたが、1830−1833年にライエルが「地質学原理」という本で万物は創造の初めから同じだという説(斉一説)を唱えて、それが地質学教科書に載るようになり、私たちもそれによって教育されてきました。(今日では再び、地球は過去に激変と絶滅があったという説が見直されているものの、多くの人はなお斉一説を常識としています。)
道徳的には、主イエスの再臨が近づくとき、神を愛する民と、神に背を向けた人々の間の価値観・生き方が隔たってゆきます。神を恐れない人々はますます自分の欲望を中心の生き方をするようになり、神を畏れる人々は神を中心とした生き方をするようになっていきます。黙示録は次のように言います。
黙示録「 22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 」
4.主の御許に引き上げられる
さて、今後ますます、世界は、神を畏れる民と、神に背を向けた民にわかれていきますから、神を中心とした生き方をしている者は、神に背を向けて生活をしている人々から、「なんで一緒に偶像を拝まないのだ」「なんでお高く留まって一緒に不品行を行わないのだ」「なぜ日曜日に礼拝になど行くのだ」などと嘲られ、煙たがられたりもするでしょう。でも、そうした神を畏れない人々のなかでも、日々、主イエスの愛を証しする生き方をしていくのがクリスチャンです。
真理の光のまったく見えない真っ暗な闇のような世界に、真理の光を届けるのがクリスチャンです。また、誰もが自分の利益しか考えないような味気ない世の中で、神様の清さと愛とをあかしする塩味のきいた味のある生き方をするのがクリスチャンです。クリスチャンは世捨て人ではなく、世の光、地の塩です。
ですが、いよいよ最後の審判の直前、主イエスは天から下って来られると、世の光、地の塩である神の民は主のもとに引き上げられます。
マタイ 24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
神の前で自分は罪あるものです、と認め、主イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかってくださったことを信じ、その十字架の愛に応えてキリストを求めて生きる人は誰でも、主イエスは引き上げてくださいます。でも主イエス・キリストなど要らないという人は地上に残されます。
八ヶ岳の見える畑の畝に並んで、声を掛け合いながら一生懸命に苗を植えているAさんとBさんがいます。
A「・・・ところで、あんたまだ教会に通ってるの?」
B「そうよ。Aさんもイエス様を信じるといいよ。」
A「ああ、またイエス様の話かい。その話は、もういいよ。」
こんなことを話ながらいるのですが、しばらくして、AさんがふとBさんを振り返ると、「あれ、Bさんいったいどこに行っただい?」ということになります。
また、CさんとDさんは農協のコイン精米所でもみすりのために行き会いました。
C「やあ、こんにちは。」
B「こんにちは。ところでCさん。あさって火曜日の晩に牧師さんがうちに来てくれて、聖書の話をしてくれるんだよ。来ないかい?」
C「ああ、また今度にしとくよ。」
・・・Cさんが精米機にお米をザーッと注ぎ込んで振り返ると、Bさんはいなくなっているのです。
何が起きたのですか?栄光の雲のうちにふたたび来られた主が、ご自分の御許に、民を引き上げられたのです。ちょうど、エノクが天に引き上げられたように。第一テサロニケ4章です。
1テサロニケ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
17節で「会う」ということばapantesisは、新改訳はMt25:1,6、Act28:15で「出迎える」と訳されています。前者は花婿を出迎える、後者は使徒パウロを出迎えるという場面です。出迎えたら、一緒に戻ってくるわけです。これはテサロニケ第一4章でもそうでしょう。私たちはイエス様を出迎えてずっと空中にいるわけでなくて、最後の審判が行われたあと、新しい天と新しい地にお迎えするということになります。「花嫁が天からくだってくる」と黙示録にあるでしょう。
新しくされた地上に降りてきて、ここを三位一体の神ともに、小さな王として治めるという務めが与えられるのです。
「22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」黙示録22:3−5
主は今の世にあって忠実だった者には、「あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう。」とおっしゃってくださいます。今の世の奉仕の人生は、かの日のためのいわば予行演習です。決して無駄ではありません。
かの日は近づいています。それは、100年後かもしれないし、10年後かもしれないし、今週かも、明日かもしれません。その日がいつであるかは、父なる神がご存知です。
結び
私は牧師として、毎週、礼拝の最後に祝祷をします。
「あおぎこいねがわくは、主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりがあなたがたとともに、今も後もかぎりなくゆたかにあらんことを」と。
そのたびに、実は、私は心の中で思うことがあります。「次の主の日、ここにいらっしゃる皆さんと、この場所で礼拝をささげるのだろうか。それとも、今週のうちに主が来られて、主の許でともに礼拝することになるのだろうか?」と。そして、「もし主が今週来られたなら、小海キリスト教会の兄弟姉妹がひとり残らず、天でともにお祝いできますように」と思いながら祝福するのです。
その日、主キリストが天から降ってこられて、主を愛する人々だけを取り上げます。ひとりは取られ、ひとりは残される。そうして引き上げられたならばイエス様をお出迎えする。そのような緊張感をもって、今週も一日一日、遣わされた持ち場、立場にあって「一本のリンゴの苗を」植えましょう。世から遁れるのでなく、世にあって世に染まらず、味気ない世に塩味を付け、暗闇に光をともして、キリストのみこころをあかししていくのです。
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいる来られるのか、知らないからです。」マタイ24:42