詩篇121
新年礼拝
2017年1月1日 苫小牧教会主日元旦礼拝
詩篇120―134篇は「都のぼりの歌」という表題がついています。これらは神の都エルサレムでの礼拝を目指して旅をする巡礼の歌です。天の都をめざして地上を旅する私たちと重ねあわせられて、味わいましょう。
120篇で巡礼は神の恐れず、人を欺くことをなんとも思わないような異教の地から、神の都にあこがれて出発をしました。121篇は、その旅の途上です。
1. 山とは
1節.
「ふるさとの山に向かっていふことなし。ふるさとの山はありがたきかな。」石川啄木は、久しぶりに帰省してふるさとの山に向かった感慨をこう歌っています。私にとって、古里の山とは、幼い日暮らしていた神戸の須磨の山です。夏にはせみ取りをし、基地を造ったり、藤づるにぶら下がってターザンごっこをしたあの楽しい思い出の場所です。信州の八ヶ岳は、第二の故郷です。みなさんも「ふるさとの山」を思い出すでしょうか。
苫小牧出身の牧師が、故郷の山は樽前山です、とおっしゃっていました。昨年末、佐藤兄に『樽前山、甦る火の山、その自然と人間の記録』という興味深い書物をお借りして読みました。苫小牧民報の記者の竹馬敏広さんという方が書いたものです。今年は登ってみたいと思います。
けれども、今朝私たちが読んでいる詩篇121篇の詩人は、山に向かうときに、恐怖を覚えています。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。」
同じ山とはいうものの、詩人が向かっているパレスチナの砂漠地帯の山は日本の山とは似ても似つかぬ姿をしています。緑の木はおろか、緑の草さえはえていないような山です。砂漠からぬっと頭を出した巨大な岩の固まりです。いのちの存続を許さないような、無機的なごつごつの岩山です。詩人は『都上りの歌』と題されているように、今、都エルサレムに礼拝に向かう途上です。その途上、眼前にのしかかるように立ちふさがった恐ろしい巨大な岩の塊を見上げて、巡礼は嘆くのです。「私は山に向かって眼をあげる。私の助けはどこからくるのだろうか。」この恐ろしい岩ばかりの山を乗り越えて、行かねばならない。どうすればよいのか。生きて、越え行くことができるのか、と。
「私の助けは、天地を造られた主から来る。」
しかし、詩人は幸いでした。彼は天地を造られた主を知っていたからです。いや、むしろ主に知られているからです。彼の前途に立ちはだかるこの巨大な岩山を造られたのも、天地万物の造り主ではありませんか。「私の助けはどこからくるのだろうか?」とたましいに問いかけると、やまびこがかえってくるように「私の助けは天地を造られた主から来る」とみことばが来たのです。
いかに巨大な岩山であろうと、これもまた私を愛し守ってくださる造り主である神にとっては、ちっぽけな石ころにすぎない。どうして、恐れおののくことが必要だろう。主がかならず乗り越えさせてくださる、と詩人は確信するのです。
人生の途上、前途に立ちふさがる巨大な岩山を前にして、「私の助けは、天地を造られた主から来る」と言える私たちはなんと幸いなことでしょうか。
2. 主の守り
さて、詩人はさらに来し方を振り返り、神様の守りの確かさをひとつひとつ数え上げて行きます。そして、神様はかならず神の都エルサレムまでの旅路を守ってくださると、いよいよ確信を深めて行きます。
「主はあなたの足をよろけさせず。」
徒歩で旅をする古代の巡礼にとって、一番大事なのは足でした。しかも、行く道は岩がごろごろしている岩砂漠です。石ころがしばしば足を傷つけます。ともすれば、足首を捻挫しそうになります。草一本ないような荒野で足を傷めたら、それは、死さえ意味したのです。しかし、主がその足を守ってくださいます。
4節「あなたを守る方は、まどろむこともない。」
荒野の旅路を、しばしば岩陰に野宿しながら行かねばならぬ巡礼にとって、夜は恐ろしいときでした。パレスチナの荒野には狼、毒蛇も、さそりも、そして当時は獅子さえもいました。夜になると腹を減らした猛獣たちが、うろついていることを考えれば恐ろしいことです。もちろん、焚き火をして夜番がついているのですが、時には昼の疲れが出てまどろむこともあるでしょう。しかし、造り主である神は、まどろむこともなく、眠ることもなく、守っていてくださるのです。なんと心強いことではありませんか。暗き内も、わたしたちは安心して休むことができます。
5節「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。」
『右の手』とは力の手、戦いの手です。陰とはこれを守ってくださるということです。戦いにおいて主が守ってくださることを意味していることばです。野獣との戦いもあったでしょうが、それより恐ろしいのは盗賊との戦いでした。よきサマリヤ人の話にあるように、荒野を行く旅人を襲い、みぐるみ剥ぎ取っていくことをもって、なりわいとしている砂漠の民がいたのです。彼らはかたぎの仕事としては遊牧や隊商をしましたが、季節によって状況によって盗賊と変貌しました。叫び声を上げても人家もないような荒野で盗賊に襲われたなら、どうしようもありません。
童謡「月の砂漠」(加藤まさを)という名曲があります。「月の砂漠をはるばると旅のらくだが行きました。金と銀との鞍置いてふたつ並んで行きました。金の鞍には銀の甕、銀の鞍には金の甕」という新婚の王子さまとお姫様のロマンチックなハネムーンを歌う歌詞ですが、現実の砂漠では、そんなことはありえません。あっというまに盗賊の餌食にされて、金と銀の甕は奪われ、二人は奴隷にされてヨセフのように、エジプトにでも売り飛ばされてしまうでしょう。
恐ろしい盗賊の出没する荒野の旅路、しかし、主が「右手をおおう陰」となってくださいます。世にあって、さまざまな信仰の戦いにあっても、主は私たちとともに戦い、勝利を与えてくださいます。
6節「昼も、日があなたを打つことがなく、夜も月があなたを打つことはない。」
「おぼろにけぶる月の夜を、対のらくだはとぼとぼと」と言いますが、パレスチナの荒野の月は、おぼろにけむりません。空気は乾燥しきっていて水蒸気というものがないので空は澄み切って、月の輪郭は鮮明です。もしけぶることがあるとすれば、砂嵐のときだけでしょう。
荒野の昼夜の温度差はすさまじいものがあります。昼は40度50度が当たり前です。照りつける日光は、まさしくあなたを「打つ」のです。汗が出ないで、どんどん体から水分が蒸発してしまいます。意識して15分ごとに水を飲まなければドライアップして、意識を失ってしまうという恐ろしさです。
「夜は月があなたを打つ」とはどういうことか。夜は夜で10度に満たなくなる、その寒さのことを言っているようです。
7節8節「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」
獣、盗賊、病気、信仰の戦い、悪魔の誘惑、そしてあらゆるわざわいから、主はあなたを守ってくださるというのです。「行くにも帰るにも」とは日常の生活すべてにわたって、守ってくださるのです。それだけではありません。「とこしえまで」たとえ肉体を去るときがきても、天の御国にいたるまで主は守ってくださるのです。
結び
さて、私たちはエルサレムに向かって旅をする巡礼の歌、詩篇121篇に、神とともに生きる人生のありがたさというものを味わいました。
しかも、もう一度あらためて見てみると、1,2節では「私は山に向かって」「私の助けはどこから」と言っていたのに、ここからは「あなたの足をよろけさせず」「あなたを守る方」と展開しています。つまり、天と地を造られたお方を見上げて都に向かって行けると確信した詩人は、私たち読者に「主はあなたをも守ってくださるよ」も語り掛けているのです。
私たちが置かれている自然環境はパレスチナの乾燥地帯とはおおきく異なっています。緑したたる山々。蛇口をひねれば水がふきだす水資源の豊かさ。獣に襲われるといってもワンコに手をかまれるくらいでしょう。北海道はヒグマがいますけれど、日常的には出会いません。
しかし、どんなに自然環境が穏やかであって、文明の利器があっても、私たちの人生という旅路には、さまざまな危険があり、前途に立ちふさがり、前進を妨げる巨大な岩山があるものです。もしかすると、今、あなたはそんな危険を経験し、あるいは大きな壁にぶつかっているもしれません。
けれども、主は今も生きておられます。2017年という年、天地を造られた主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたの命を守ってくださいます。そして、天の都に到着するまで、とこしえまで守ってくださいます。