苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月18日   胎児の私を

詩篇139:16
文語訳
わが體いまだ全からざるに なんぢの目ははやくより之をみ 日々かたちづくられしわが百體の一だにあらざりし時に ことごとくなんぢの冊にしるされたり


口語訳
あなたの目は、
まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日の
まだ一日もなかったとき、
その日はことごとくあなたの書にしるされた。


新改訳
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。


新共同訳
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。

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 詩人は神が自分の外に表れる行動ばかりか心の思いを、私の四六時中を、私がこれから発しようとする言葉までも知り、その両手で自分を取り囲まれていることに恐怖を感じて、主からのがれたいと願う(1-6)。しかし、天にのぼり地底にくだり、東に行こうと西の海の果てに住もうと、闇に覆われて、主の御目から遁れることなどできないと悟る(7-12)。
 そこで、詩人は改めて自らの成り立ちに思いを馳せる。そして、母の胎のなかで私を造られたのは神であり、私が母の胎にいたとき、私を見て、私の人生の計画を記されたのは神であったと悟る。そして、「私は感謝します。」という。
 神に自分のあらゆる面が知られていることは恐ろしいことである。しかし、さらによく考えれば、神が自分のあらゆる面を知っていてくださるゆえにこそ、私は存在し私は今日も生き、生かされている。
 明日は主の日。
 
<同日追記
 新共同訳が「記されている」と訳される「カーサブ」の時制は「未完了」である。他の三つの訳は「記された」と完了的に訳している。未完了であれば、どういうニュアンスの違いがあるだろう。「まだその一日も造られないうちから」とあるので、実質的には、意味のちがいはないけれど、未完了のほうがたぶん「今の私」がその「神が記された日々」を意識しているという違いがあるだろうか。