苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

非キリスト者の葬に教会が携わることについて  <追記あり>

 以前から、教会の葬儀について、また教会墓地使用規定について、考えるところがあったので、その根本にかかわる聖書からの考え方を、少々ここにメモをしておきたいと思います。
 ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。しかし、これはほんとうに聖書に教えられていることでしょうか。
 聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1−3、コロサイ1:15−17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 「 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。」(ローマ3:29,30)
 また、聖書によれば、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていて、人はみな「キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いをうけることになる」(2コリント5:10)のです。キリスト教徒はキリストのさばきを受け、仏教徒閻魔大王のさばきを受け、イスラム教徒はアッラーのさばきを受け、無神論者はさばきを受けず無に帰するなどと聖書は教えていません。すべての人がキリストのさばきを受けます。
 このように、聖書によれば、非キリスト者も、真の神からいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。
 もちろん、その故人はキリストにある罪の赦し、永遠のいのちを受けたわけではありませんから、そこを曖昧にしてはなりません。非キリスト者の葬儀においては、故人に地上の人生を与え導かれた神と御子キリストに感謝し、その全知の公正なさばき主の御手に、故人をゆだねるということがその趣旨となります。故人は無に帰したのではなく、得体の知れない闇に吞み込まれたのでもなく、万物の創造主にしてさばき主であるお方の御手にくだったのです。したがって、キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行うのが正しい道であるといえると思います。

追記 2016年12月20日
 「私ではなくキリスト」というブログで匿名氏が、上記の記事について懸念を表明し批判をしておられるので、読者は下のリンク先をご覧になると参考になると思います。実際、キリスト教会が非キリスト者の葬儀にかかわることには、困難がともない、この種のつまずきが起こったり、批判がくる可能性があります。
http://godslove.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-a516.html

1.匿名氏は、キリスト教会が仏教寺院のように、葬儀ビジネスで儲けようとしている世俗化だと批判しています。
→筆者が、この記事を書いたのは、キリスト者の家族が未信者のまま亡くなり、そのキリスト者が他宗教式葬儀の喪主の立場にならざるをえない状況にある場合を念頭においてのことのことです。「葬儀ビジネス」は関係ありません。
 非キリスト者一般に教会で葬儀をするほど暇な牧師はいないでしょうね。偽牧師以外は。しかし、匿名氏がいうように、今後は、ブライダルのように、セレモニーホールのイミテーション牧師・司祭が出現する可能性はなくはないかもしれません。

2.匿名氏はルカ9:59-62が、教会と葬儀の関係に関して言及するときに、真っ先に思い起こす御言葉だといいます。
→この「父を葬るまで」の箇所の意味は、伝道者として召された者が、献身を延期にする口実として「父を葬るまで」と言っていることに対して、神の国の宣教の緊急性を述べている箇所です。当時ユダヤ教では「父を葬る」ことは他の宗教的義務に最優先したので、こういう口実を設けたのです。葬儀を主題としている文脈ではありません。釈義のまちがいです。

3.匿名氏は、<非キリスト者の葬儀で、牧師と教会員がその人物がキリスト者であったかのような言動をしていた>というご自分の一つの経験を根拠として、非キリスト者の葬儀とキリスト者の葬儀の「『区別』は事実上、実行不可能なのである。」と断定している。
→それが実行不可能な牧師・教会はやるべきでないでしょう。キリストの十字架の福音を裏切ることになるからです。「故人は、心と言葉と手をもって行なった善悪のすべてをご承知の聖なる神の公正無比のさばきのもとにあります。」と伝えねばなりません。
 非信者の葬儀のメッセージでは、神が故人に賜った一般恩恵を感謝すること、死後に公正無比の神のさばきがあることを伝える、これが要点ということになるでしょう。