苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の約束の真実

創世記15章                   
2016年9月11日 苫小牧主日朝礼拝

 アブラムが主の約束を信じて故郷を後にしてから、数年がたちました。その間に、飢饉を恐れて約束の地を捨ててエジプトに下る過ちを犯したり、カナンの地に帰還してからはロトと別離することになり、そして東方の侵略軍からロトを救出したりというようなことが起こりました。アブラムはこの約束の地カナンで認知されて根をおろし始めたのです。確かに約束の地は、ここに与えられたのです。
 けれども、神様がアブラムにくださったもう一つの約束は、一向に成就される気配がありません。すなわち、アブラムに子どもが生まれて、彼から多くの民が出てくるという約束です。アブラムとサライの間には相変わらず子どもが生まれる気配はありません。アブラムの心には恐れが生じてきました。子どもがいなければ、老い先短い自分が、この地を相続しても何の意味があろうかという恐れです。このアブラムに神様がもう一度約束を確認してくださったのが、本日の記事です。


1.主のことばが臨む

 15:4 「すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

「主のことばが彼に臨んだ」というのは、非常に独特な表現です。「主がおおせられた」というのが普通ですが、ここでは「主のことばが臨んだ」というのです。主は、そのみことばによって、ご自身の臨在を現されました。
 夜、テントの中で、ひとりアブラムは「ああ。私には子どもがいない。この地を受けたとて、なんになろう。主は私を国民にするとおっしゃったけれど・・・。」と思い悩んでいたのでしょう。すると、主のことばがアブラムに向かって臨んだのでした。
 神の臨在に触れるというのはどういうことでしょうか。奇跡的出来事や奇跡的癒しを経験して神様の臨在に触れることもありましょう。しかし、いわゆる奇跡の体験は必須ではありません。信仰の父アブラムは生涯を通じて、いわゆる奇跡を目の当たりにしたことはありません。ダビデもそうです。啓示の歴史において奇跡が用いられたのは、出エジプトのとき、王国時代のエリヤのころ、そして、イエス様の時代この三つの時代だけです。 では、アブラムはどのようにして、主のご臨在を経験して、主の御心の道に歩んだのかといえば、主は、そのみことばにおいてアブラムに親しくご自分を啓示されたのでした。
 主がみことばをもって私たちに親しく臨在されるということは、アブラハムの時代も今日も同じです。主の日のみことばの説き明かしのとき、あるいは、一人聖書通読をしている朝に、私たちは、主のみことばの迫りを受けることがあります。それは生ける御霊によることです。そのとき、活字であったみことばがあたかも肉筆の文字のように迫ってくる、あるいは、今、四千年前にアブラムに語られたみことばが、今、ここで語っておられることがわかります。
 聖書に保存された神様のみことばは、死んだことばではありません。私たちが謙虚になり、心を空っぽにして、「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」という祈りをもってみことばの前に静まるなら、神は今あなたにも語り給うのです。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。使徒パウロはテサロニケの信徒たちに向かって言いました。
 「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(1テサロニケ2:13)
牧師の説教は宗教講義ではありません。説教とは、御霊による御言葉のときあかしなのです。「信じているあなたがたのうちに働いて」とあるように、それを信じるならば、みことばはあなたの人生のうちに働き、実を実らせるのです。


2.星を数えよ――信仰の助け

 4節の約束のみことばののちに、主はアブラムをテントの外に連れ出しました。そして星を数えてみよとおおせになります。
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
  水蒸気がほとんど含まれないあの乾燥地帯の星空です。真っ黒なビロードに無数のダイヤモンドをばらまいたようなありさまでした。この星星をみつめるうちに、アブラムの心のうちに希望が湧いてきました。神様は確かに約束なさったことをしてくださるに違いないと。「私はこの星星のような子孫を持つことになるのだ」と信じられたのです。神様は、くじけそうなアブラムの信仰を励ますために、星空をお見せになったのでした。
 信仰とはまだ見ていないことを事実として先取りして認識することです。まだ見ていないことなのですが、すでに見ていることとして認識するのです。そして、信じたとおりに神様は実現にいたらせてくださいます。そのために、この視覚的なイメージというのが役に立つことがあります。たとえば、ある人はご自分の夫の救いを願って祈っています。「あの人を救ってください。」と日々祈っています。けれども、そうして祈っているとき、もし無神論を主張したり、イエス様について悪態をついたりしている夫を思い浮かべているならば、「あの人を救ってください。」と口では祈っていても、救われると信じることはとても難しいことです。どうすればよいか。すでに救われ夫の姿を思い浮かべて祈ることです。たとえば、夫と教会にいっしょに出かけていく場面をまぶたの裏に思い描いて、お祈りする。たとえば、夫といっしょに賛美している姿をまぶたの裏に思い描きつつ、祈る。たとえば、家庭で食卓を囲んでご主人がリードして食事を祝福する祈りをしている場面を思い描いて祈る。・・・このようにイメージして祈るならば、確信をもって祈ることができます。
 さらに、確信をもって祈ると、それを現実として生活できるようになります。たとえば、あなたが家具屋さんに行って素敵なテーブルを注文したとしましょう。お金を払って、店の人が「明日の午後3時にお届けにあがります」と約束したら、あなたは、家に帰ってそのテーブルを置くスペースを作るでしょう。まだたんすは届いていないのですが、店の人のことばを信じたので、将来の事実を今先取りして行動しているのです。
 あなたが、もし夫の救いをほんとうに信じたら、あなたはそのように行動するようになります。夫がやがて家庭の信仰生活のリーダーとなるように、そのスペースをあけるようになるでしょう。そうして感じ行動し生活するようになると、実際にそのようになっていきます。 夫の救いにかぎったことではありませんが、私たちは神に願い祈るときには、その祈りが就したときのことを、はっきりとまぶたのうらに描いて祈ることがたいせつです。


3.アブラムは義とされた

 さて、6節にもどります。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」このことばは、二千年後、使徒パウロが引用して、信仰義認の教理の典拠とするものです。ローマ書4:1−5。

「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょう。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神のみ前では、そうではありません。聖書はなんと言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。そでが彼の義と見なされた。』とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義と見なされるのです。」

 アブラハムが信仰によって義とされたというのは、私たちがイエス様を信じていただく約束と、何が共通しているでしょうか。それは、神の約束を信じることで、神の子どもつまり御国の相続人としていただけるということです。アブラムは神様が、星の数ほど子孫をくださり、世界の相続人となるというみことばをそのまま事実として信じたのです。神様の約束をそのまま真実であると受け入れたのでした。新約の時代のキリスト者である私たちもまた、イエス・キリストにあって与えられた神様の約束を信じたのです。イエス様にあって与えられた約束とは、己の罪を認めて主イエスを救い主として信じる者は、罪ゆるされて神の子どもつまり御国の相続人としていただけるという約束にほかなりません。
 使徒パウロアブラハムの事跡を引きつつ、明確に主張する一点は、人が救われ神の民とされるのは、どんな律法の行ないによるのでもなく、神の約束を信じる信仰によるということです。神の約束のことばを信じる信仰によるのです。神がアブラムを一方的にお選びになり、約束をお与えになりました。アブラムはその主のみことばを信じて受け入れたのです。そうしたら、その約束のとおりに主がなさったのです。私たちの救いはどうか。「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。」という約束です。それを信じるなら、神はあなたの罪をゆるし、あなたを神の子、御国の相続人としてお救いになるのです。救いは、行ないによって得るのではなく、約束を信じる信仰という手段によって得るのです。 もし、主の約束どおりイエスを信じないならば、あなたは自分の罪ゆえに滅びます。もし、主イエスを信じるなら、あなたは罪ゆるされ、神の子とされ、御国の相続人となります。


4.契約の真実のしるし

 神様は、信じたアブラムに不思議なことをして見せ、アブラムの子孫がこれから500年ほど後に経験することを予告なさいます。そして、主の約束が必ず成就することを、アブラムに理解できる方法で示されました。7節から21節。

15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。」
15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」
15:9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
15:11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
15:12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。(中略)
15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。
  「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。
  エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、
15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

この出来事は、当時、オリエント世界でなされていた契約の儀式を背景にしています。その儀式においては、牝牛、やぎなどを引き裂いてその間を通るということは、もし、この契約を破ったら、私はこのように引き裂かれてもかまわないということを意味したのです。神様はいつくしみふかいお方ですね。神様は、アブラムが神様の約束をはっきりと信じることができるように、当時人間世界で行われていた契約の儀式を用いられたのです。
 この引き裂かれた動物たちの間を通ったのはアブラムではありません。17節。「さて、日は沈み、暗闇になったとき、そのとき、煙の立つかまどと燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」煙のたつかまどと燃えるたいまつは、主なる神様の臨在の現れです。神様が、アブラムに対してこの契約を確かに守るということを、この儀式をもって表現なさったのです。


 むすび
 きょう、私たちはアブラムに主のみことばが臨んだという出来事からいくつかのことを味わってきました。
第一。主はみことばにあって私たちに今日も臨んでくださいます。ですから、自分でいろいろ書き込んだ紙を主に差し出すのではなく、心を白紙にして「主よ。お話しください。しもべは聞いています。」と申し上げましょう。
第二。救いは、神様の前に功績を積み上げることによるのでなく、ただ主の約束を信じ受け取ることによることを知りました。主のことばに親しみ、主の御言葉の約束を単純率直に受け入れて、その約束の成就を私たちは待ち望むものでありたい。
 第三。主はご自分の契約の真実にかけて、信じる私たちを必ず救ってくださいます。主は真実なお方なので、ご自分のことばをたがえることがありえないのです。