創世記13:5-18
2016年8月28日 苫小牧主日夕拝
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。
序 アブラムとロトの関係
早世した兄ハランの息子がロトである。アブラムは、子どもを持たなかったので、特にこの甥のロトに目をかけて、我が子のように育てたのであった。ロト「おじさん」「おじさん」とアブラムを慕っていた。だからこそ、アブラムが故郷を捨て、父の家を捨てて、神の約束の地へと旅立つときにも、「わたしは、おじさんとととも行きます。僕はおじさんの右腕になります。」という大きな決断をしたのである。アブラムはうれしかっただろう。確かに、それは生半可な決断ではない。ただし、そこには若者らしい野心や冒険心も手伝っていたのである。
アブラムは、そういう決断をしてついてきたロトを一層いとおしく感じていたに違いない。亡き兄の忘れ形見としてのロトであったし、我が子のように思うロトでもあった。ところが、今日お読みした出来事で、アブラムとロトとは別の道を行くことになる。アブラムの道は当面の苦難の後に永遠の栄光につながる道、そして、ロトの道は目先の快楽の後に滅びへとつながる道である。
私たちは、この二人の人生の分かれ目から何を学ぶだろうか。
1. エジプトで得た富が仲たがいのもとに(13:5−7)
アブラムは妻サライと甥ロトと、一族の者たちとともにエジプトから帰ってきた。ところが、エジプトから帰って間もない日、アブラムのしもべたちとロトのしもべたちとの間にいさかいが起こった。なにが原因だったのか。「持ち物が多すぎたので、かれらがいっしょに住むことができなかったからである」とある。この持ち物とはなにか。それは、アブラムがエジプトに下ったときに、妻サラを大奥に上げたことに対する王からの贈り物であった(12:16)。特に、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、らくだとある。これらを養うためには、広い草地と水と食料とが必要だった。
エジプトの王からの贈り物によってアブラムもロトもたいへんなもの持ちになっていた。ただ、アブラムの方は、妻を差し出して得た褒賞ゆえに、鬱々とした気持ちでいたのだが、ロトはどうやらいきなり資産家になったので、舞い上がってしまったらしい。アブラムはエジプトを出るとき、国境にエジプトで得た家畜も銀も金も置いてくればよかったのだが、それもできないで約束の地までこのエジプトの財産をずるずると引きずってきてしまったのである。
前後から想像するのだが、アブラムの心のなかには「こんなエジプト王からもらった財産など捨てていくべきではないか。」という苦々しい思いがあっただろう。13章1節、2節に繰り返し、「すべての所有物」とか「家畜と銀と金とに非常に富んでいた」とある。他方、ロトの方は「おばさんが帰ってきてよかった。」という気持ちがあったのは当然だが、心のどこかに「でも、エジプトでの優雅な生活も、もったいなかったなあ。」という気持ちがあったのだろう。当然、まさかおじのアブラムが、こんなエジプトの富を捨てていこうかなどと思っているとは想像だにしなかっただろう。
ロトのたましいは、エジプトに下ったことによって、この世の富というウィルスに犯されてしまったのである。そして、この富が、ロトとアブラムの仲たがいの原因となってしまった。アブラムとロトとは、貧しかったときには互いに助け合うことができていたのに、富がふえることによって争いが起こってしまった。アブラムは、きっとエジプトで富を得たことが、こういう結果をもたらしたことに、さらに罪を感じたにちがいない。「私が約束の地を捨ててエジプトに下ったばかりに、ロトは金に目がくらむようになってしまった。」と。
箴言15:17「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎みあうのにまさる。」
箴言17:1『一切れのパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』
2. ロト――欲のためにつかんだものは失う
アブラムは、ロトとの争いが起こったときどうしただろうか。7節―9節。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。」
「そこにはカナン人とぺリジ人がすんでいた。」「私たちは親類どうしなのだから。」とある。何を意味していることばだろうか?アブラムは神の民として、この地に住む私たちが争ったのでは、神の民の名折れであると思ったのである。カナン人、ペリジ人たちの前で、財産争いなど演じていては、彼らはそれをおもしろがって見ていることだろう、この世の人々と同じではないかと言われてしまうということである。
実際、この世の新興宗教教団は、教祖が死ぬと必ずといってよいように、分裂騒ぎが巻き起こる。遺された莫大な財産の相続をめぐって、だれが次の教祖となるかということを争うのである。彼らにはこの世にしか希望がないのであるから当然である。けれども、神の民は天の都に最終の希望をもって生きている。この世の富の問題で争っていたのでは、天の御国への希望の証になるわけがない。アブラムは、神の民としての証を望んだ。
そこで、アブラムはどうしたか。年長者であるアブラムの方から折れ、ロトに選択をゆだねたのである。9節。
「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
一方、ロトはどうしたか。「えっ。おじさん、それで本当にいいんですか。」と内心驚いただろう。『ああ、ほんとうは、おじさんにこそ先に選んでくださいというべきなのだろうな。これまでさんざんお世話になってきたのですから、というべきなのだろうな。』と内心思ったであろう。しかし、さらに彼は思った。『でも、これは千載一遇のチャンスだ。おじさんがああいっているのだから。いいじゃないか。』と。そうして、ロトは舌なめずりをするようないやしい目つきでヨルダンの低地全体を見渡した。10節にあるように、ヨルダンの低地は、そのときは実に良く潤った緑の沃野であった。水と豊かな緑は、牧畜を生業にしている彼らにとっては、宝の山だったのである。
「13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」
ロトの人生の選択の原理は、結局、富だった。どっちがもうかるか?どっちが得か?これがロトの人生の選択において一番の優先順位であったと断言するほかはない。そして、富を人生の選択順位において一番にする人は、ロトと同じく滅びへの道をひた走りに走っているのである。
このあとに恐ろしい暗示的なことばが続いている12節。「ロトは低地の町町に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまなもので、主に対しては非常な罪人であった。」
ロトはまずソドムの近くにおり、しばらくするとソドムの中に住むようになり、やがてソドムの顔役にまでなってしまう。そして、ソドムといっしょに滅びてしまう。ロトは金持ちになりたかった。それが、罠となったのである。
「私たちは何一つこの世に持ってこなかったし、また何一つもって出ることもできません。衣食があればそれで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(2テモテ6:7−9)
金銭を愛したロトの人生は、このあと、滅びへ滅びへと転落してゆくのである。ロトは、私たちに対する反面教師である。
3. 主のために捨てた者はすべてを得る
他方、アブラムはどうしたか。アブラムはあえて目の前の富を断念した。その富がロトとアブラムの争いの原因となり、その結果、神の栄光を曇らせてしまうと思ったからである。また、神の民としての潔い生き方の邪魔になるとわかったので、アブラムは主の栄光のために目の前の豊かな緑の野を捨てた。そして、よい草地もない地をあえて選び取ったのである。
一見すると、あつかましく欲深いロトが良い分を獲得し、神を恐れるアブラムは損をしたように見える。確かに目先はそのとおりである。しかし、長い目で見ると、立場はまったく逆転してしまう。アブラムはロトと別れた後、主がアブラムに啓示のことばをお与えになった。
「13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(13:4−17)
アブラムとロトは分け合うことにし、そしてロトが良い部分を取ってしまったかに見えたのだが、実際には、アブラムがすべてを相続し、ロトは何も取り分はなくなってしまうと神様はお告げになったのである。
そして、さらにわが子の代わりにかわいがってきた甥のロトを失って、寂しい思いをしているアブラムにたいして、主は子孫を地のちりのようにたくさん与えると約束して慰めてくださったのである(16)。
アブラムは神様の約束を信じた。そして、ヘブロンのマムレの樫の樹のそばに住み、ここに主を礼拝する祭壇を築いたのである。こここそ、アブラムの全生活の原点であり、ガソリンスタンドのような存在だった。祭壇の前に来て、アブラムは霊の眼をさまさせられ、もう一度主を仰いで生きるちからを得たのである。
「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。」(13:8)
むすび
アブラムから私たちは何を学ぶのか。それは、自分の欲望のために得たと思った人は、結局すべてを失ってしまうが、主のために捨てた人は、後の日に、主からすべてのよきものを受けることになるということである。私たちは、主から受けるのでなければ、何も本当に得ることはできない。
「1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。 1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:14−17)