マルコ5:1-20
2016年9月5日 苫小牧主日朝礼拝
序
5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
主イエスの一行は嵐のガリラヤ湖を過ぎてようやく向こう岸ゲラサの地に着きました。ゲラサ人の地というのは、ガリラヤやユダヤ地方とは違って異教的なものが混ざっている地域でした。そのことは、この地で豚がたくさん飼われていたことからうかがい知ることができます。旧約時代に律法では、豚を食べることは禁じられていたのです。
また、主イエスをまず出迎えたのが、長年墓場を棲家としていた薄気味悪い悪霊つきの男であったということも、ここがオカルト的な霊的暗闇が支配する異教が混じっている地であったということを示しています。
歴史的には、紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリヤ帝国に滅ぼされて、アッシリヤは強制移住政策をとって異邦人たちをこの地につれてきてイスラエルの民の民族性や誇りを取り去ってしまおうと図ったことが、その後のこの地域の混合宗教状態の結果をもたらしていたのです。
1 悪霊の虜の悲惨と解放
(1)オカルトの危険
さて、異教的な霊的薄暗がりの中で、人々は神々を求め、偶像を刻み、占い、霊媒などをして生活をするようになりました。聖書(ローマ1章)によれば、創造主である神を見失った人間は、その胸にぽっかりとあいた霊的空白を埋めるために、人間や獣や昆虫などさまざまな被造物を神々として祭り上げるようになりました。
そこに悪魔がつけいりました。イザヤ書やエゼキエル書とユダ書によれば、悪魔と手下である悪霊たちというのは、もともと神の使いだったのですが、自らが神のように崇められたいという欲望を抱いたことによって堕落してしまった存在ですから、彼らは人間に恐れられ拝まれることを切望しているのです。そこで、悪魔・悪霊どもは、偶像礼拝や占いや魔術などオカルト的なしわざを通して、人間に崇められ恐れられるように振舞います。つまり、人々がオカルト的なことに心を開いて、まじないをもって悪霊を呼んだり占いをしたりするならば、悪霊はその人に何らかの知識や超能力やご利益をもたらし、その代わりその人の魂を支配し、その人生を破壊してしまうのです。わたしは牧師として、何人かそういう悲惨なケースにかかわったことがあります。占い・オカルト・魔術・霊媒などに面白がってかかわってはいけません。身を滅ぼすことになります。
特に危険なのは悪魔と取引をすることです。「このことをかなえてくれるなら、自分の魂を悪魔にやる」などということを口にするならば、悪魔はそれを聞いていて、現実にその人のうちに取り付き人格を支配してしまうということがあります。絶対に、こういうことは口にしてはいけませんし、心に思ってもいけません。ゲラサの青年が非常に重症であることから推測するなら、彼は何らかのオカルト的背景から、こんなことになってしまったのでしょう。その人生は悲惨なきわまりないものとなっていました。
5:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
彼が薄気味悪い墓場に住んでいたというのは、悪霊との関わりある人の特徴の一つです。聖書によれば、死者の霊は、実際には、死後ただちに主の御許(旧約ではアブラハムの懐)か黄泉に行ってしまい、最後の審判を待っているので、墓場には存在しません。もし墓場にいる霊がいるとすれば、それは悪霊です。彼らは拝んでもらえる物や場所に付くのです。
また、この青年は鎖をもってしても彼をつないでおくことができませんでした。これは悪霊つきになった人がトランス状態に陥ったときの特徴の一つです。悪霊を主イエスの名によって追い出す奉仕をする場合、小柄な女性であっても非常な怪力で暴れるので、屈強な男性何人かで彼女が怪我をしないように取り押さえる必要があります。
またこの青年は夜昼となく絶望の叫びを上げ続け、石で自分のからだを傷つけていたともあります。絶望感と死にたいという願望に彼は支配されていました。これもまた悪霊がもたらした感情でした。
もう一つ、悪霊の特徴は、イエスが神の御子であることを知っているということです。彼は他の誰よりも先にイエスのところにやってきました。悪霊はイエスがまことの神の御子であると知っているけれども、決してイエスの前にへりくだって悔い改めて救われることはありません。神の御子イエスを憎むのです。
5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われたからである。
まことに悲惨な状況の中に、この青年は置かれていました。日本はもともと創造主なる神を知らないで来たので、占い・魔術などオカルト的なものが盛んだったのですが、合理主義文明が信用されなくなった近年、ますますそういう傾向が強くなっているようです。もし、今までにこうしたものにかかわったことがあったとしたら、その罪を悔い改めること、手を切ることが大事なことです。合理主義は間違いですが、オカルトにかかわることも間違いです。
(2) 主イエスが男を悪霊から解放する
次に主イエスが悪霊を追い出します。
5:9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
レギオンというのはローマの軍隊における編成単位の名ですから、この青年のうちには非常におびただしい悪霊どもが住んでいたのでしょう。実際、二千匹もの豚に彼らは乗り移ってしまいました。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。 5:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。 5:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
5:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
主イエスは天においても地においても一切の権威をもっておられるお方ですから、たとえ主に敵意を抱いている悪霊であったとしても、彼らは主イエスの命令に従わざるを得ないのです。今日、悪霊の追放ということがなされる場合でも、それはナザレのイエス・キリストの御名によってなされることです。
それ以外の、なにか拝み屋と呼ばれる人々が、除霊などといってしていることは、へんないけにえを与えて悪霊のご機嫌をとり、悪霊と取引をしているのであって、悪霊からの解放のわざではありません。そういうものをかかわるならば、かえって悪霊とのかかわりが深くなってしまいます。けっして近づいてはなりません。
3 富の虜の悲惨と解放のために
さて、青年からおびただしい悪霊どもが追い出されてしまったとき、周囲の人々はどのように反応したでしょうか?
5:14 豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。 5:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。 5:16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。 5:17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
一人の青年が恐ろしい悪霊の支配から解放され、暗闇から光のなかにその人生を移されたとき、そのことを『よかったねえ』と喜んだ人はゲラサには一人もいなかったのです。彼らは、かえって恐ろしくなったのです。恐ろしくて、イエス様にこの地からお引取りください」とお願いしたのです。彼らは何を恐れたのでしょう。彼らは二千頭の豚という財産を失ったことを見て、このまま主イエスがこの地に留まり、つぎつぎに御業を行われたならば、自分たちの財産がまた莫大な損害を受けるに違いないと恐れたのでした。つまり、彼らは、あの青年のように悪霊に取り付かれた虜ではありませんでしたが、富に取り付かれていたマモンの虜だったのです。
先日、新潟県の泉田知事が、次の知事選に出馬することを取り下げるという表明をしました。泉田知事はご存知のように国と東京電力のデタラメな原発行政を厳しく批判してきたのです。2004年10月の中越地震では、柏崎刈羽原発では地盤が割れ、火災が発生しました。泉田知事は、その教訓から、万一の原発事故に備えて、各原発は事故対応のための免震重要棟を作らねばならないことを提言しました。そのおかげで、福島第一原発には免震重要棟が備えられていたのです。だからこそ、2011年3月の原発事故に際して、原発職員たちが逃げ出さないでこの事故になんとか対処することができました。もし免震重要棟がなかったならば、今頃、東日本全体は誰も住むことができなくなっていました。そういう見識と勇気のある泉田知事が出馬を取りやめました。理由は、地元紙である新潟日報が原発とは別件で、泉田知事による行政を徹底的に批判する不公正な報道を展開して、泉田知事の仕事を妨害してできなくさせたからです。では、なぜ新潟日報は泉田批判をしたか。ある情報では、東京電力が1本一千万円の全面広告を1年間5本も打ってくれたからだそうです。
泉田知事が出馬を取り下げたなら、建設省出身の原発推進派の人物が知事になり、避難計画もないデタラメな状態のままに柏崎刈羽原発を再稼動するでしょう。柏崎刈羽原発というのは、豆腐の上の原発と呼ばれます。湿地帯の上にコンクリートを打って無理やりに造った原発で、中越地震のときにはそのコンクリートが割れて15センチから30センチの断層が生じ、火災も起こったのです。新潟は地震の巣です。新潟の原発が破綻したばあい、福島原発の破綻とは比べ物にならないほどの被害となります。なぜなら、福島第一原発から噴出した放射能の8割から9割は西風に運ばれて太平洋に落ちましたが、新潟の原発の場合には逆に8割から9割が日本列島の内陸部に落ちるからです。
二千年前ゲラサの地で起きた出来事と、今、新潟県で起こりつつあることは、本質的に重なり合っています。悪霊よりもマモニズム拝金主義のほうが、そのもたらす実害の巨大さから言えば、もっと悪質なのです。
私たちは主イエス・キリストを心の王座に迎えねばなりません。マモンの奴隷から解放されたものとして、富に支配されるのでなく、富を支配する人とならなければなりません。さもなければ、自分の家庭も社会も国も滅ぼしてしまいます。キリストに支配された者として、富みと悪魔の支配から解放され、この世界を滅びからすくうのは私たちキリスト者の務めです。
主イエスは「お引取りください」と言われれば、去って行かれます。無理矢理押し込むお方ではありません。しかし、主イエスは、ご自分がゲラサに入っていく代わりに、あの悪霊から解放されて新しい人生の始まった青年を、この地における証人として置いてゆくことになさったのでした。
「5:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。 5:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
5:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」
やがて主イエスが十字架と復活によって、人類救済のための贖いのわざをなしとげて天に戻られた後、聖霊が注がれて福音宣教がスタートします。福音はエルサレムからユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、そして世界へと拡張してゆきます。そのとき、あの青年がゲラサの地で行ったイエス・キリストさまが私を救ってくださったという証言が生きてくることになるのです。
結び
本日、私たちは二種類の虜を見ました。一つは悪霊の虜となってしまった悲惨な青年です。もう一つは、マモン・富・利権の虜となってしまったおっさんたちです。悪霊であれ、マモンであれ、その虜となってしまえば、悲惨なことになります。
私たちは、主イエスを心の王座にお迎えしなければなりません。その時、私たちは悪霊や富に支配されるのではなく、かえってそれらを支配するものとなることができます。あの悪霊から解放された青年のように、使わされた地域、職場、家庭において、主がどんなすばらしいことをしてくださったかを証言して生きてまいりましょう。