苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

見つめよ

マルコ8:22−26

2016年12月4日 苫小牧福音教会

8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
8:24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
8:25 それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。


 主イエスの癒しの御業は歴史の中になされた奇跡としての事実です。しかし、それは単なる病気のいやしにすぎないものではなく、その御業を通して、主はなにか霊的なメッセージを私たちに告げようとしていらっしゃるのです。ですから、私たちはこの癒しの出来事から主のメッセージを読み取ることがたいせつなのです。
 

1.村の外に連れて

 ベツサイダにおける今回の奇跡によるいやしの特徴の一つ目は、「イエスが盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。」という点です。村の中で、衆人環視のなかではイエス様はこの奇跡をなそうとは思われなかったのです。これは先に聾唖者であった青年の耳をエパタとおっしゃって開いた奇跡とよく似ています。

(1)その理由は、ひとつにはイエス様がいやしを宣伝の手段とはしたくなかったということでしょう。奇跡的癒しという宣伝ほど民衆の目を引き、人を集めるのに手軽な方法はありません。病気は人間にとって、どの時代も・どの地域でも大きな問題であり、その解決を人はいつの時代も切望しているからです。いかに医療が発達しても、いや科学的医療が進めば進むほど病人は急速にふえています。(従来ならばとうに死んでしまった人が病人として生ることができるようになったからでしょうか。)
 ですから、現代でも奇跡のいやしを宣伝手段とするならば多くの人があっというまに集まります。けれども、イエス様はこれを望まれなかった。だからむしろ村からひとり連れ出してひそやかにこの癒しの奇跡を行なわれたのです。


(2)主が彼を村から引き出されたもう一つの理由
もう一つの理由はベツサイダという村が、イエス様を後に拒絶するからです。マタイ11:21、22を見て見ましょう。イエス様は嘆いておっしゃいました。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」
 イエス様は、そこから彼を引きだしました。さらに26節を見ると、「村にはいって行かないように」とまでおっしゃったのはそのせいです。
 神様の救いは「引き出す」ことによってなされてきました。アブラハムは父祖の地から引き出され、イスラエルの民はエジプトから引き出されました。教会を意味するエクレーシアという言葉自体、「呼びだされたもの」という意味です。それはかならずしも、ふるさとを捨てるとか、物理的に移住するということは意味するわけではありませんが、クリスチャンになるということはこの世から呼び出されることなのです。この世の人々が、その下で生きているところの価値観−−肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢がすべてというような価値観−−の世界から、引きだされるのです。そして、神の国とその義とをまず第一に求める価値観の世界へと引き入れられたのです。
 イエス様は私たちを聖なるものとして、いったん世から引き出されます。その上で、イエス様は私たちを世に光として、地の塩として遣わされます。聖別と派遣です。


2.目に両手を

 今回の癒しのもう一つの特徴は、23節にあるように「両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何が見えるか」とおっしゃった点です。
 これも先の聾唖者の癒しの場合と似ています。目が見えない青年ですから、イエス様が今いったい自分に何をしようとしているのかよくわかりません。言葉を聞くことはできますが、不十分です。そこで、彼が主イエスのなさろうとするみわざを実感をもって信じることができるために、つばきをつけてその両目をさわられたのです。
 主イエスの癒しのわざは、機械の修理のようなものではありません。主イエスの癒しは、人格と人格の交わりのうちに起こることなのだということです。人格と人格の間に交わりがあるためには、そこに信頼関係というものが必要です。主イエスが注いておられる愛と力は、それを受け取ろうとするこの目の見えない青年の信じる心があって受け取ることができるものなのです。その信じる心を準備させるために、主は、彼を一対一になり、彼の両目にさわり、両手を置かれたのでした。
 キリストにある信仰とは、機械の修理のようなことではありませんし、また、おまじないや魔術の類ではありません。そこには人格と人格の交流がありません。キリストにある癒しとは人格的なものなのです。


3.段階的に癒された

 ここまでは、先のエパタの聾唖の癒しと似ているのですが、今回この盲人の癒しの事件のもう一つの際立った特徴は、段階的に徐々にいやされたということです。これはイエス様の癒しのわざとしては例外的なやり方です。主はまず「その両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか。』と聞かれましたら、彼は「見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。』と答え」ました。最初は人影が見えるようになった。ですが、それは木の影のようにぼんやりとしていたのです。
次にイエス様はもう一度彼の両眼に手をあてられました。そして、「彼が見つめていると(diablepsen アオリストだからむしろ「じっと見つめると」)」すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」のです。
 実は、聖書に記録されたイエス様による癒しの記事のなかでは、最初不完全にいやされで、それが段階的に癒されて行くという記事は、これが唯一なのです。非常に特徴的な事件であるということができます。私たちは、この出来事を通して神様からどんなメッセージを聞き取るべきなのでしょうか。少なくとも、二つあります。

(1)救いと救いの確信
一つは、事実として救いを得たということと、救われたという確信を与えられるまでは、時間がかかる場合が往々にしてあるということです。イエス様によって、見えなかった霊の眼が開かれてボンヤリと神様のことがわかるようになったということから、はっきりと神様に自分が愛されているんだということがかわるまでには、時間がかかるということが往々にしてあるものです。ウェストミンスター信仰告白14章に次のようにあります。

第14章 救拯的信仰について
1 選ばれた者が、それによって、自分の魂が救われるように信じることができる信仰の恵みは、彼らの心の中で働くキリストのみたまのみわざであって、通常、み言葉の宣教によって生み出されるものであり、み言葉の宣教と礼典の執行と祈りとによって増進され、強化される。
3 この信仰は、程度に強弱の相違があって、しばしば、またいろいろと攻めこまれたり、弱くされることもあるが、勝利を得、多くの場合、わたしたちの信仰の創始者でありまた完成者であるキリストによって、全き確信に至るまで成長するものである。


人の救いは、人生のある時点で福音を聞き、自分の心にイエス様を迎える決断と祈りをすることに始まります。そのときにはよくわからなくても、もしその人がイエス様に向かって真剣に心を開いて、「私の心にイエス様お出で下さい」と祈るならば、確かにその人に新しいことが始まります。ボンヤリとですが、神様の愛、自分の罪、イエス様による救いということが、おぼろげに見えてくるのです。ですが、まだ救いの確信はありません。
 では、はっきりと見えるようになるには、どうすればよいのでしょうか。「じっと見つめる」ということです。「ああボンヤリしている。よくわからない。」と、がっかりしないで、見つめ続けることです。礼拝に出てみことばの説き明かしを聴き続け、こつこつと聖書を読み、わらない点があれば牧師に質問し、ことばを聞き続けることです。ローマ10:17に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」とあるとおりです。すると、「すべてのものがはっきり見えるように」なるのです。「確かに、イエス様は私の罪のために十字架にかかってよみがえられたのだ。それほどまでに、私は罪深く、それほどまでに神様の私に対する愛は大きく深いのだ。」とはっきりわかるのです。そして人生がほんとうに光に満ちたものになるのです。だから、「じっと見つめる」ことがたいせつです。


(2)もう一つは、このぼんやりしていたことが、はっきりと見えるようになるということについて教えられることは、神様から与えられるビジョンということです。
 ヨセフという人は17才の時に、神様からビジョンを与えられました。麦畑で収穫をしていると、自分の束がすくっと立って、その周りに兄弟たちの束が取り巻いて、お辞儀をするのです。それはいつの日か自分が、王のような立場になってお父母と兄さんたちを迎える日が来るというものでした。わらたばと月星太陽のビジョンでした(創世記37章)。彼はその後、兄たちに奴隷に売り飛ばされたり、人に陥れられて牢屋に入れられたりしたのです。けれども、ヨセフはその苦難の日々においても決して投げやりには、なりませんでした。奴隷であれば奴隷として主の御前に最善をつくし、囚人であれば囚人として主の御前に最善を尽くしたものでした。そして、ついに時満ちて不思議な導きでヨセフはエジプトの宰相にまで上りつめ、そこに兄たちがやってきてヨセフとは知らずに彼にひれ伏したのです。兄たちはヨセフの前にひれ伏しました。主のくださったビジョンの成就でした。
 神様は、苫小牧福音教会に、また、あなたの人生にも平安を与える計画を持っていらっしゃいます。12月を迎えて、クリスマスと新しい年に向かっての準備の日々のなかで、神様は2017年にどのようなビジョンを用意していてくださるのでしょうか。祈りつつ考えていきたいと思います。自分の将来について、教会の将来について私たちもすばらしいビジョンを主からいただくために、静まり祈るときが必要です。


むすび
 あの青年は「見つめているとすっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようにな」りました。救いの確信を願っているなら、じっと主のみことばを見つめましょう。また、人生行路において今はぼんやりとした幻も、こつこつと御言葉に耳傾けながら生きるなら、やがて明確なものとされていくでしょう。
詩篇34:8 【主】のすばらしさを味わい、これを見つめよ。
 幸いなことよ。彼に身を避ける者は。