苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

父の喜びと期待にこたえて

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
             ローマ書8章14−17節


 先日は宣教二十周年記念の礼拝をおささげしました。山口陽一先生を通じて、神様は「永遠のいのちに生きた20年」というメッセージをいただくことができて感謝しています。
 今日は、この小さな群れを支えてくれた、神の喜びとご期待についての真理を皆さんにお分かちしたいと思います。

1.最高の恵み

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)


 神の子どもとされたという恵みは、信仰によって罪赦されて義と認めていただいたという恵みを土台として与えられた最高の恵みです。信仰によって義とされたことは、実にすばらしいことで、私自身その恵みに感激して、20歳の2月に神様の前に自分の人生をおささげしました。ある出来事を通して、自分の内面に巣食うエゴイズムをまざまざと思い知らされたとき、そして、同時にこの私の罪のためにイエス様が十字架にかかってまで私を救ってくださったとわかったとき、「もはや自分のために生きたのでは申し訳ありません。神様、私の人生をあなたにおささげします。」と祈らないではいられなかったのです。これが私の伝道者としての原点です。
ですが、神の子どもとされたという恵みは、義とされた恵みを土台として、さらにクリスチャンに与えられる最高の究極的な恵みです。
 しかも、この最高の恵みは、クリスチャンであるならば、誰でも受けている恵みなのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもである」とあります。神の御霊によって、「イエス様は主です。神の御子です」と信じる信仰を与えられている人がクリスチャンです。神の御霊に導かれているのがクリスチャンです。すべてのクリスチャンは、神様の子どもとしていただいているのです。

2.奴隷的クリスチャン

(1)再び恐怖に陥れる奴隷の霊
 しかし、私たちクリスチャンは神の御霊を受けているにもかかわらず、時々、神様からいただいた「神の子どもとされた恵み」の味わいを忘れてしまうことがあります。そのときには、信仰生活を送りながら再び恐怖に陥って、また自分が神様の子どもとされているにもかかわらず、自分は奴隷にすぎないのだと思い込んでしまうのだというのです。だからこそ、パウロは次のように強調しなければなりませんでした。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(8:15)

 クリスチャンが奴隷のいだくような恐怖にさいなまれるとはどういうことでしょうか。ここに「再び恐怖に陥れる」ということばがあります。かつてイエス様を知らなかったときには奴隷的な恐怖に脅かされる生活をしていた。けれども、イエス様に出会っていったんは、そういう奴隷的恐怖から解放されたのに、いつの間にか「再び」そういう奴隷的恐怖をいだくようになってしまったというのです。いつのまにかまた昔のイエス様を信じる前の、奴隷的な恐怖にしばられるような生き方をするようになっているのです。
 いったい奴隷としての恐怖とはなんのことでしょうか?これは「律法の下にある状態」と、「福音の中にある状態」の違いはパウロがガラテヤ書3章から5章で力説していることです。奴隷と子どもの決定的なちがいとはなんでしょうか。それは子どもは自由だけれど、奴隷は不自由であるという違いです。奴隷は、主人から何ができるか、何がどの程度できるか、業績はどんな程度かという、その働きの多寡によって評価されるという恐怖に縛られています。どれだけ成果を上げられるかという基準で測られるので、いつ役立たずだと追い出されるかとびくびくしているのです。
けれども、子どもの場合はなにができるかできないかという成果以前に、父親はその子どもの存在そのものを喜んでいるのです。子どもは、成果の多寡のいかんに縛られておびえる必要がない、そういう自由をもっています。
 私たちはキリストを知る以前、いつも何ができるか、何ができないかということで人を測り、自分をさばき、生きていたのではないでしょうか。ある神学者(C.ホッジ)は、アダムが善悪の知識の木から実を取って食べて以来、すべての人は自力救済主義者となってしまったのだといいます。そうして、いつも何ができると傲慢になり、できないと卑屈になったりして生きていました。それが奴隷的な状態という意味です。

(2)やっぱり神の子どもなのです
 イエス様を信じて行いでなく信仰によってキリストの贖いをいただいて罪赦されたのに、またもこういう奴隷的恐怖に縛られるようになってしまうことがあります。クリスチャンはまじめですから、結構そういうことがありがちかもしれません。そういう人々に対して、パウロは、「いや確かにあなたがたはすでに神の子どもとされているのであって、奴隷ではない」としきりに強調するのです。
 神の子どもとされたという事実には、二つの側面があります。一つは、身分的・法的なことです。イエス様は神の実子ですが、イエス様を信じる私たちのことを、神様は私たちを養子として入籍してくださいました。
 あの放蕩息子は、父のもとに戻ろうとするとき、お父さんに向かっていうセリフを準備しました。「私は天に対して罪をおかし、あなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」ところが、実際に、父のもとに戻ってみると、父は息子に駆け寄り、抱きしめ、接吻してやみませんでした。そして息子が「・・・もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。」とまで言うと、最後まで言わせませんでした。その代わりに父親は彼の指に相続人の証としての指輪をはめてくれたのです。「おまえは雇人や奴隷ではない。わが子だ。」と。
 私たちの救いにあてはめれば、このときに指にはめられた子どもとしての保証の指輪こそ、御子の御霊なのです。父は御子イエスを信じる者のうちに保証として御子の御霊をくださったので、私たちは神様を父として慕う心を授かったのです。
「私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(8:15,16)
 御子の御霊は、私たちのうちに御父への信頼と愛と喜びをあふれさせてくださいます。「父は私を愛していてくださる」という喜ばしい意識を継続的に与えてくださるのです。八木重吉という詩人は、この神の子どもとされた経験をこんなに素朴な詩に表現しています。

1925年大正14年2月17日より
 われはまことにひとつのよみがえりなり
おんちちうえさま

おんちちうえさま

と とのうるなり

 主にある同労の兄弟姉妹。もしかすると、あなたは「私は神様の役に全然立っていない。こんな私を神様はしぶしぶ赦してくださっているのではないか。」という思いに捕らわれているかもしれません。しかし、天の父は、あなたがどんな働きができるかということ以前に、あなたの存在そのものを喜んでいてくださるのです。加えてもし主のためにご奉仕がなにかできるとしたら、そもまた素晴らしい恵みです。ですが、病を得たり、年を取ったり、さまざまな状況のなかで、自分はなにもできないと落胆している方が、あるいは、いらっしゃるかもしれません。けれど、主は、そんなあなたの存在そのものを喜んでいてくださいます。

3.父の期待に応えて

 放蕩息子は罪赦され、かつ、子どもとされて、父の家での生活が始まります。これが私たちクリスチャンの教会生活です。では、彼は「父さんは、ぼくの働きではなく、その存在そのものを喜ばれているから、何もしないゴロゴロしていよう」という怠け者となるでしょうか。
父は、使用人とわが子と、どちらにより多くの期待をするでしょうか。いうまでもないことです。使用人にではなく、わが子に対してより多くの期待をするにちがいありません。なぜなら、わが子は自分の財産と事業とを受け継いでいく相続人であるからです。

「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

 父なる神様の私たち神の子どもに対する期待は大きいのです。実際、旧約の律法の下にあった奴隷的聖徒たちに対する期待よりも、福音によって救われた神の子どもたちに対する期待のほうがずっと大きいのです。たとえばパウロのことばを引けば、律法には「盗むな」とありますが、新約では「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)とあります。旧約が偽りを言うなといえば、新約は真実を語れと命じます。もし律法が1ミリオン行けと命じるならば、福音は2ミリオン行けというのです。
 この福音の時代、父なる神様から私たちに対する期待は大きいのです。父は「イエスに似た者となるのだよ、わたしに似た者となるんだよ」とおっしゃいます。けれども、子どもが父の期待に応えて働くのは、奴隷のようにびくびくと主人の顔色をうかがうような恐怖からではありません。子が父の期待に応えようとするのは、一方的な恵みをもって注がれている父の愛に対する、自由な心をもってする喜びの応答であり献身なのです。ですから、旧約時代にはあの四国ほどの面積の地に閉じ込められていた救いは、全世界へと爆発的に広がってきたのです。私たちが奉仕に励むのは、私たちが福音を証するのは、神様が私たちのお父さんとなってくださって、私たちにキリストにある愛を注いでいてくださるからです。
  しかも、私たちは一人ではありません。私たちはキリストの共同相続人です。長子である主イエスは私たちに「さあ、一緒に2ミリオン行こうではないか。」と仰せになります。キリストとともに、私たちは主にある家族として、ともにこの国の、そして世界に主キリストの福音を証してゆこうではありませんか。

結び
 私たちは、なにか立派なところがあったから救われたのではありません。罪のかたまりでしたが、神のあわれみの故に選ばれ、御子の贖いゆえに罪赦され義と宣告されました。
そのとき、神は私たちを単に義と宣告するだけでなく、私たちを子として神の家族に迎え入れてくださいました。私たちは御子イエスを兄とし、神を父とする神の家族のうちで生きるべく召されたのです。私たちは子ですから、奴隷のように不自由ではありません。感謝と自由をもって、奉仕の生活に生きるのです。
 神の子どもである私たちは相続人ですから、かの日の新しい天と新しい地の栄光をめざして、今の世に御国つまり神の支配が成るように、父の愛をあかしして生きて行きます。簡単なことではありません。けれど、あせる必要はありません。胸のうちに平安がります。なぜなら、天の父が私たちとともにいてくださって、御子イエスにあって、今も私たちの存在そのものを喜んでいてくださるからです。「さあ、ともに2ミリオン行こうではないか」と主イエスは私たちに呼びかけてくださっています。