苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イサクは年をとり・・・

本日の通読 創世記27章、マタイ8章23節−9章17節

イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき・・・
                (創世記27章1節)

 イサクには双子の息子がいた。長男エサウはハンティングが趣味のアウトドア派の毛むくじゃらのスポーツマン。好きな食べ物はもちろん肉。次男ヤコブ祈り瞑想することが好きなインドア派で、好きな食べ物は煮豆(?)。エサウはさっぱりした性格だが霊的な関心は希薄であったのに対して、ヤコブは静かだが狡猾なところがあり、内に秘めた神の祝福に対する執念はただならぬものを持っていた。「わんぱくてもいい。たくましく育って欲しい。」という父親的気分のゆえか、好物の鹿肉をとってきてくれるゆえなのか、老イサクは、エサウをひいきにして世を去る前に大事な祝福をエサウに与えようとした。しかし、結局は、妻リベカと次男ヤコブの策略によって、イサクの意図は挫かれ、祝福はヤコブのものとなってしまう。長男エサウは次男ヤコブに殺意をいだき、それを恐れた次男は逃避行に出るという悲惨なことになる。
 問題はイサクである。妻リベカは双子が胎内にいたときに、神から弟ヤコブが大いなる祝福を享けるべきものだとみことばを受け取っていた(創世記25:23)。イサクも当然それを知っていたはずだが、それにもかかわらず、彼はあえてエサウを祝福しようとした。なぜか?イサクは鹿肉とエサウを偏愛したからであろう。
 若き日のイサクは、父に連れられてモリヤの山に登り、神のみこころならばと、父の刃(やいば)の前にしずかにわが身を差し出したほどの信仰の人だった。だが、イサクは年老いて、残念ながら肉眼のみならず霊眼もまたかすんでしまったようである。逆に、若い日は相当問題のあったヤコブは、年老いて肉眼がかすんでも、霊の眼はさえわたり過ちなく孫たちに神の祝福を与えることになる(創世記48章)。父とは対照的だった。
 そろそろ六十が見えてくるこのとき、大事な教訓を得た。