苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

兄との再会

創世記33章
2017年2月26日 夕礼拝

1 ヤコブの兄との再会

「33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルふたりの女奴隷とに分け、
33:2 女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。」


 ヤコブはヨルダンの東、ヤボク川のほとりで、いよいよ何より恐れていた兄エサウとの再会しなければなりません。ですが、ヤコブは32章で主とすもうをとって祝福ある名イスラエルをいただいたものとして、このところから、徐々に作り変えられていくことを見ることができるところです。彼の振る舞から肉的なところが段々とそぎ落とされて、神に信頼する者としての生き方が現れてくるのです。
 兄は400人の手だれを連れてきていました。兄は久々の弟との再会であり、自分もその後、繫栄していることを見せてやりたいということなのか、それとも、ヤコブとその家族を滅ぼそうとしているのか。こわがっているヤコブの側からすれば、後者の意図ではないかと思えました。
そこで、ヤコブはもしもの時には被害がもっとも少ないようにと考えて隊列を整理します。ヤコブのこの整理の仕方がいかにも、本音丸出しでこっけいなほどです。 女奴隷たちと子どもを先頭に、 レアと子どもたちをそのあとに。 ラケルとヨセフを最後に・・・という順序は、もしエサウが怒って攻撃して来たときには、まず女奴隷とその子どもたちに犠牲になってもらい、その次にはあまり好きじゃないレアと子どもたちに、そして最後にラケルとヨセフという順序です。いかにもヤコブらしい。

 しかし、神とすもうをとって祝福を得る前と変わった決定的に点があります。それは、相撲の前にはヤコブは自分は一番後ろにいたのに、相撲のあとヤコブは先頭に立って進んだ点です。ヤコブはヤボクの渡し一族を先に渡して、自分ひとり残ったのです。けれども、主がともにいてくださるという信仰が与えられたからこそ、自分が先頭に立つべきだと思えたのです。3節。「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。」
ヤコブは7度も馬鹿丁寧なお辞儀をしたり、へりくだりすぎ、へつらいすぎでしょうと思える挨拶10節をもします。

33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」

しかし、すでに兄の怒りは解けていました。エサウヤコブのところに走って来て、ガバッと抱きしめて、兄弟ふたりはおいおいと泣いたのでした。ドラマにあるような恩讐を越えての和解の抱擁です。

2 和解の担保・・知恵

 では、これで二人のわだかまりは解けたのでしょうか。エサウの側はあまり考えない人なので、そのように思っていたかもしれません。彼の性格はさっぱりしています。久しぶりに帰ってきた弟と積もる話もしたいし、近所で仲良く暮らせればいいなと思っていたようです。
けれどもヤコブは、そうとは考えていませんでした。今は、一時の懐かしい感情のゆえに兄は鷹揚に振舞っているけれど、いずれ兄は自分に復讐をしようとする日がくることがあるかもしれないと考えています。ヤコブとしてはそう考えたので、どうしても、賠償はすんだという担保を受け取ってもらわねばならないと考えています。

「33:11 どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。

どうしても受取らせるヤコブ。あからさまには言いませんが、これは担保です。「あのときは、一時の感情で受け入れてやったのだが、俺は奴に貸しがあるのだ。」と、後にエサウに言わせないためです。
この手の担保については、これまでも出てきました。爺さんのアブラハムが、地元の領主アビメレクと将軍ピコルが来たときにも、平和条約を結んだとき、そのしるしとして七頭のメスの小羊を受け取らせています(21:30)。アブラハムが妻サラが死んだときにマクペラの畑地を手に入れたときも、ヘテ人たちが「あなたにはいつもお世話になっているから自由にお使いください」といったのですが、どうしてもといってそれ相当の代金を取らせたということもありました。これは知恵というものでしょう。人間の好意、感情などという不安定なものを土台とせず、客観的な物的担保をもって、契約したことを安定あるものとするのです。

3 兄から離れて住む

 和解がすんで、兄エサウはとても親切に、自分が道案内をしてやろうと持ちかけます。これから近くで兄弟なかよく暮らせばいいじゃないか、というつもりです。

33:12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう」と言うと、
 しかし、ヤコブはいろいろと理由をつけて遠慮します。
33:13 ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
33:14 あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」
 すると人の良いエサウは、自分の手の者何人かをヤコブに使ってもらおうというのです。けれども、ヤコブは兄に借りを作りたくありません。そこで丁重にことわります。
33:15 それでエサウは言った。「では、私が連れている者の幾人かを、あなたに使ってもらうことにしよう。」ヤコブは言った。「どうしてそんなことまで。私はあなたのご好意に十分あずかっております。」
33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。

 エサウは南方のセイルの山地に戻っていきます。ヤコブは後で自分でまいりますと言いましたが、実際には、彼はエサウの後を追って南にゆくことはしません。地図をご覧ください。ヤコブは南のセイルとはまったく違う西に一族を導きました。

33:17 ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。

 ヤコブが兄に対する警戒心を決して解いていないことがわかりますね。瞬間湯沸かし器のような兄エサウは、今はひさびさの再会ゆえに懐かしさで一杯になっていっしょに暮らせればと言ってくれる気持ちは本当だろう。けれども、兄も自分もそれぞれが家畜の群れと家族をもっている以上、かならず水場や草地を争うことになるに違いないと踏んでいました。むかし、アブラハムと甥っ子のロトが、草地や水場をめぐって争いになったことを彼は聞かされていました。
 ヤコブエサウの一族とは距離を置いて、ヒビ人の都市国家シェケムのそばスコテに家を建て、家畜小屋を建てて住み着くことにしたのです。

 しかし、実は、ヤコブが戻るべき場所は、ここスコテだったのでしょうか?彼が戻るべき場所は、旅立つときに神が現れて約束をくださった神の家ベテルだったのです。が、ヤコブはここスコテに居を構えることにしました。それには、理由がありました。そして、このヤコブの中途半端な行動が大きな事件の要因となっていきます。しかし、これはまた来週。