28:6 エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、
28:7 またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。
28:8 エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。
28:9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。(創世記28:8,9)
エサウとヤコブという似ても似つかぬ兄弟を見比べると、人としてみればエサウの方がはるかに安心である。弟ヤコブに騙され、祝福を奪われ、怒っても、何年か後に再会すれば、その恨みなどすっかり忘れてしまえる、そういう男である。ヤコブは、執念深く、ずるがしこく、策略的で、彼と一緒にいたら、いつ寝首をかかれるかわからないという種類の人である。
けれども、エサウは残念な人だった。彼は、肝心なことがまるでわからず、反省できないのである。肝心なこととは、神の民として生きる上での価値観、聖なることである。彼は若い日には、聖なる特権である長子の権利を一杯の食い物と取り換えた。しかも、それが大失態であったという自覚はまるでなく、すっかり忘れてしまったかのように父の祝福を受けようとした。神の民の人生における重大事、嫁取りのことについても同じであった。思慮が働かない。エサウはいい人だった。だが、聖なる事柄をキャッチするアンテナがない残念な人だった。
ヤコブは嫌な人、怖い人だった。だが、彼は神の祝福を慕い求めてやまない情熱の人だった。