悲しみ尽きざる うき世にありても
日々主と歩めば 御国の心地す
ハレルヤ 罪咎消されしわが身は
いずくにありても 御国の心地す
(聖歌467)
多くの方の愛唱聖歌ではないでしょうか。試練の多い「憂き世」を歩んでいるときに、私たちの心の目を主イエスに向けてくれる賛美です。
ところで、この文語の歌詞の中で現代人が誤解しがちなところがあります。「日々主と歩めば」というところです。
現代語でいえば、これは「もし日々主と歩むならば、天国にいる気持ちがするだろう」という仮定の意味にとられるでしょう。しかし、文語では、「もし日々主と歩むならば」という意味を表現したいなら、「日々主と歩まば」としなければなりません。
「歩め」は、動詞「歩む」の已然形です。<已然形+ば>は確定条件といって「〜なので」という意味を表す場合が多いのです。他方「歩ま」は未然形であり、<未然形+ば>は、「もし〜ならば」という仮定条件です。
そうすると、この聖歌の意味はどういうことになるでしょうか。
「悲しみが尽きないつらい世にあっても、もし日々主と歩んだなら、天国の心地がするだろうなあ。」とかなわぬ理想を仮定して歌っているのではなく、むしろ、「悲しみが尽きないつらい世にあっても、私は日々主とともに歩むので、天国の心地がするのです」と力強く信仰の確信を喜び歌っているのです。
「天国ってどんなところですか。蓮の葉っぱの上で一日中ボーッとしているんならつまらないなあ」と言った中学生がいました。天国とはどんなところでしょうか。宗教改革者は言いました。「たとい天国に行っても、もしそこに主イエスがいなければ、私にとってそこは地獄である。しかし、もしかりに地獄にいってもそこに主イエスがいますならば、私にとってそこは天国だ。」と。
御国とはすなわち、私を愛し、私の罪のために十字架にかかったお方、いえ、よみがえったおからがともにいてくださるところなのです。ならば、確かにこの世にあっても、「日々主とともに歩めば、御国の心地す」です。