創世記39:23
それは【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。(新改訳)
主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。 (口語訳)
其はヱホバ、ヨセフとともにいませばなりヱホバかれのなすところをさかえしめたまふ (文語訳)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた。(新共同訳)
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「からである」にあたるベアシェルを、例のごとく、新共同訳だけは訳出しない方針。どういう理由なのだろう?ああ、理由をいわないのが、その方針かな。
場面は牢獄。エジプトに奴隷として売られていったヨセフは、まずポティファルの屋敷で労して信頼されて全権をゆだねられた執事となり、冤罪で獄にくだってからは全権をゆだねられて牢名主(?)となり、そして、出獄後は、王に全権をゆだねられてエジプトを治めた。秘訣は「主がともにおられたこと」。ヨセフはいずこにあっても淡々と、そう、実に淡々と誠実に主の前に人に対しても管理者としての仕事をする。
思い出すのはあの聖歌。
「かなしみ尽きざる憂き世にありても
日々主と 住まえば みくにのここちす
ハレルヤ 罪とが消されし わが身は
いずくに ありても みくにのここちす」
肝心なのは、「住まえば」(已然+ば)であって、「住まわば」(未然+ば)でないこと。つまり、「住むので」であって、「住むならば」ではない。ヨセフはまさに、日々主とともに住んでいたから、いずくにあっても、そこは御国だった。
主よ。今日もあなたがともにいてくださることを感謝します。