苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

再臨と御国の到来についての聖句まとめ

 新約聖書が御国(バシレイア、神の支配)について教えていることについての証拠聖句のまとめと、少々コメント。

1.基本的に御国は、「こちらから行く国」ではなく「向こうから来る国」ものです。

3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイ3:1−3

 旧約時代最後の預言者洗礼者ヨハネは、ユダの荒野でこのように宣言して宣教を開始した。天の御国(神の国)は、このように向こうから近づいてくるものである。それは、先立って、神の御子が人となって私たちの間に住まわれたという出来事からすでにスタートしたことである。神の国は、こちらから向こうに行くものではなく、あちらからこちらに迫って来て、突入してくるものである。だから、主イエスは弟子たちの祈りについて教えを乞われたとき、こう教えられた。

「御国が来ますように。」(マタイ6:2)

2.御国は、「御国が来ますように」と主の再臨とともに未来に来るという面と、原理的には御子の初臨とともにすでに神の民のうちに来ているという面があります。「すでに」と「いまだ」という言い方をします。

ルカ 17:20「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。17:21 「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』」


3.再臨において、キリストは復活体をもって降ってこられます。

使徒1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

4.再臨の前に世を去った聖徒は肉体を離れて「キリストとともにいる」ことになる。聖書を神のことばと信じるならば、安易に「ギリシャ的霊肉二元論」とレッテル貼りをするのはよろしくありません。これは復活までの暫定的祝福の状態を述べているものです。

ピリピ1:23,24
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。


5.キリストは再臨のとき天から下って来られ、再臨より前に世を去った聖徒を復活させ、その時、世にある聖徒は完成した御国を相続するにふさわしい「霊のからだ」に一瞬にして変えられて、みもとに集められます。これは聖徒の側からいえば王を出迎えることであり、また王とともに準備が出来た地に降りて来ます。

13:26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。マルコ13:27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。

1コリント15:51,52
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

1テサロニケ4:13−17
1テサロニケ4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。 4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。


6.古い天地の消滅と最後の審判
 最後の審判に先立って、地と天は焼き尽くされ、跡形もなくなり、ついで、最後の審判が行われます。

2ペテロ3:10−12
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

黙示録20:11−15 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。 20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。


7.「新しい天と新しい地」が出現し、新しいエルサレム(主の御許に挙げられた聖徒たち)が天から降ってきます。

2ペテロ3:13しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

黙示録21:1,2
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。」

 解釈の一つに、聖徒は霊の世界に携挙され地は滅び失せることを偏重し、今の世と次の世の断絶を強調して、今の世に対して無責任な態度を取り、核戦争も環境破壊OKといった態度をよしとする誤りがある。
 もう一つの解釈として、この態度は霊を尊び肉を軽んじるギリシャ的霊肉二元論の影響だとレッテルを貼って否定し、再臨の主が地に降ることを捉えて、今の世と次の世の連続性を強調し今の地に対する責任的な生き方を求める主張がある。こちらは、今の世に対する責任的生き方の主張はよいけれど、次の世の新しさが看過されているきらいがある。
 聖書は、今の世と次の世の連続性と非連続性の両面を教えている。今の世で主から託されたわずかな物に忠実なしもべは、次の世で主からさらに信任を受けて、多くを委ねられる。



8.私たちは、再臨されたキリストとともに、共同相続人となって、更新された被造物を統治します。
(黙示録22:3−5、ローマ8:17−22、)。

1コリント6:2,3
6:2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。 6:3 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。

ローマ8:17−22
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

黙示録22:3−5
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。