苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン12月6日  主の栄光があなたの上にのぼったから

イザヤ書60章1節
文語訳>
起よひかりを發て
なんぢの光きたり
ヱホバの榮光なんぢのうへに照出たればなり


口語訳>
起きよ、光を放て。
あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったから。


新改訳>
起きよ。光を放て。
あなたの光が来て、
主の栄光があなたの上に輝いているからだ。


新共同訳>
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、
主の栄光はあなたの上に輝く。

 翻訳の異同についていえば、他の翻訳が「キー」という理由の接続語を、それぞれ「照出たればなり」「のぼったから」「輝いているからだ」と訳しているのに対して、新共同訳のみが、例のごとく「キー」を訳出していない。これは新共同訳にどうやら一貫している方針のようである。
 だが、この箇所で「キー」はみことばの理解の鍵(key)である。闇でしかない私達が起き上がり、光を放つことができるとすれば、主の栄光を反映することをもって以外にはないのだということ、我々は主の栄光を映す鏡なのだということが、このキーによってこそあきらかになる。

 主なる神様。この朝、あなたの栄光を仰ぎ見て、一日、あなたの栄光を映す鏡としてふつつかなしもべを用いてください。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)