苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン11月14日  調和した多様性

イザヤ書66章18節
口語訳
「わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。


新改訳
「わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。


新共同訳
わたしはすべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。

 翻訳の異同をいえば、口語訳「もろもろのやから」、新改訳「種族」とあるところを新共同訳は「すべての言葉の民」としている点。ヘブル語本文にはラシュノートと「言語」ということばが入っている。英訳ではいずれもtonguesとはいっている。

 「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)

「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」(マタイ8:11)

「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」(黙示録21:24‐26)

 興味深いのは、バベルの言葉の混乱でバラバラになった人類が、御国の完成においても、ひとつの民にされるわけではないことである。諸国の民は、それぞれの多様な栄光と誉れを携えてやってくる。そういう意味で、あのバベルの混乱もまた聖化され栄化されて豊かな多様性とせられる。・・・斎藤五十三宣教師の説教を思い出した。
 人間の権力による支配は、多様性を許さず等質化を図る。しかし、神の支配はひとつにされるが等質化するわけではない。調和した多様性の豊かさがある。