苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン10月24日   恐れ と 畏れ

申命記13章4節
口語訳>
あなたがたの神、主に従って歩み、彼を恐れ、その戒めを守り、その言葉に聞き従い、彼に仕え、彼につき従わなければならない。


新改訳>
13:4 あなたがたの神、【主】に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。


新共同訳>
あなたたちはあなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。

 文脈としては、イスラエルの中に「ほかの神々に仕えよう」と誘惑する偽預言者が出現しても、彼に決してしたがってはならないというパラグラフのなかで、告げられている一節。翻訳のちがいに大きなものはない。ただ、日本語の文字が口語訳・新改訳では「恐れ」とあったのを、新共同訳が使える漢字の枠をひろげて「畏れ」とした点くらいである。「恐れ」より「畏れ」のほうが適切であることは、多くの読者が感じて来たところであろう。文科省、国語審議会の気まぐれかなにかしらないが、そういう過ぎ行くものに、聖書翻訳はあまり影響される必要ないのではないかと、私は思う。一般の読者が読めるならば、それでよい。
 将来を嘱望されながら早く天に召された旧約学の専門だった畏友によれば、「畏怖と恐怖は旧約聖書で区別されるものではない」とのことだった。だが、私の理解としては畏怖には相手に対する好意が含まれるが、恐怖には相手に対する嫌悪が含まれているというちがいがあるので、やはり、文脈によって訳し分けるべきではあるまいか、と考える。