苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「聖書から見た『教会と国家』」の原稿を紹介

「聖書から見た『教会と国家』」の原稿を紹介しておきます。1997年にまとめたものです。「売れそうにない」ので出版に至らず、お蔵入りしていたので、HPで公開したものです。
とりあえず序文と目次をアップしておきます。関心があれば、ご一読ください。

http://www.church.ne.jp/koumi_christ/shosai/church-state.pdf

序 戦時下のCS教案 戦時下の日本のプロテスタント教会では、二月十一日の紀元節(今でいう「建国記念の日」)を前にした主の日、次のような教会学校教案が用いられたことがあった。
「 紀元節(有難いお国)
[金言]義は国を高くし罪は民を辱しむ。(箴言十四・三四)
[目的」1.紀元節を目前に控へ、祝ひの意味を判らせる。
2.正義の上に立って居る祖国を知らしめて童心にも、日本の子供としての自重と、神の御護りによってこそ、強くて栄えることの出来ることを知らしめる。
[指針」皇紀二千六百二年の紀元節を迎へ、今日、展開されて居る大東亜戦争の使命を思ふ時、光輝ある世界の指導者としての日本の前途は、武器をもって戦ふより、遥に至難な業であることを痛感するものであるが、手を鋤につけた以上、万難を突破して完遂せねばならぬ唯一の道でもある。
 翻って子供を見る時、小さい双肩に、重い地球が負はされて居る様にさへ感ずる。今こそ、揺るぎない盤石の上にその土台を据えねばならない時で、吾等に負はされて居る尊い神の使命である。祈って力を与へられたい。
「教授上の注意]大和の橿原神宮の御写真か絵及びその時代の風俗を表はす絵、金鵄勲章の絵か写真などを用意して見せてやり度い。時間があれば勲章を作らせてもよい。(後略)」

 これは「皇紀二千六百二年(西暦一九四二年、昭和十七年)二月号」の『教師の友』(日本基督教団日曜学校局)に記されたものである。真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したのが前年の十二月八日のことである。あの時代がいかに異常な時代であり、国家神道キリスト教会をもいかに深くまでむしばんでいたかということが伝わってくる。この教案がどの程度そのまま用いられたかは定かではないが、少なくとも教会学校教師たちはこれに基づいて子どもたちに神社参拝を奨励し、日本の子どもとしての戦意高揚がはかられたのである。当時は、教会の礼拝堂のなかにまで神棚を設置することが強要され、牧師の説教は官憲にチェックされるというきわめて異常な状況であった。
 ちなみに、紀元節というのは、天照大神の子孫である神武天皇が、九州の高千穂の峰に高天ケ原から降臨した後、東へ東へと攻め上って大和の橿原で初代天皇として即位した日を2月11日として記念する祭りであった。敗戦後、紀元節は一九四八年(昭和二三年)軍国主義天皇制の象徴であるこの祝日は廃止されたが、一九六六年(昭和四一年)多くの反対を押しきって「建国記念の日」として復活させられた。
 「私は政治には関心ありません」という青年クリスチャンもいるだろう。「クリスチャンとして神の御前に歩むということと、国家の問題とは関係ない。」と思ってきた人もいるだろう。「宗教家が政治のことを口にするのは好ましくない。弓削の道鏡のようになりかねない。」と眉をひそめるご年配もいらっしゃるかもしれない。しかし、この教会学校の教案の一ページを見れば、クリスチャンとして神の御前に忠実に歩むということは、国家の問題をから目をそらしてはありえないということを誰しも認めないではいられないのではないだろうか。
 使徒信条に「(主は)ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」とある。あえてローマ総督ピラトの下で主キリストが苦しみを受けられたと告白されるこの一句は、主のみからだなる教会とこの世の権威との問題ある関係を暗示している。教会と国家の問題ある関係は、聖書全巻と主の再臨の日までの歴史を貫く問題の一つなのである。教会がこの世界に生きて行く上で、国家の問題は避けて通ることができないのである。
 本書の意図。この種の書物は一般的にいって、靖国問題を焦点とする民族主義勢力の動きに警戒して書かれてきたものであろう。本書にももちろんそうした意図があるのは事実であるし、取り扱う事例にも過去の日本の国家主義の問題とその時代の教会を扱ったものが多い。実際、靖国問題への聖書的視点の確認ということに、この本が少しでも役に立てばと願っている。しかし、筆者としては特に、敬虔な態度で聖書に親しみ隣人の救いのために日夜祈っている、普通のクリスチャンの兄弟姉妹にこの本が読んで頂けることを願っている。国家の問題というのは、信仰生活と別物ではないことがわかっていただけ、このためにも祈りの手を上げていただけるようになることを期待するからである。
 主は、再臨が近づく「産みの苦しみ」の時代に「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と予告された。民族主義国家主義が勃興するときキリスト者として教会としてかつてのように道を過ってはならない。サタンがどのように国家を操ろうとしているのか、策略を見抜くことが必要である。また、再臨直前には自ら神と称する「不法の人」が統治する獣の世界的全体主義国家が出現するとも聖書は言う。時代がへだたり地域は異なっても、全体主義の構図は変わらないことを聖書は語っている。だから聖書の光で、過去の特に明治以降の日本の近代史における国家と教会の問題を照らし出すなら、私たちは主の再臨によき備えができると思う。
 本書は「聖書から見た『教会と国家』」を副題とした。筆者はあくまで聖書の視点にこだわり、教会と国家の問題を理解しようとした。現代人にとって常識である啓蒙主義的な自由の理念をも、あえて聖書の視点から見直すことを企てた。すべてが移り変わるなかにあって、ただ聖書のみが変わることのない神のことばと信じるからである。

「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」黙示録十三章一節

一九九七年二月
筆者

目次

第一章 「上に立つ権威」の務め(ローマ13:1−7)
 1.国家の権威
(1)キリストの主権
(2)現代日本における権威の序列
 2.「上に立つ権威」の務めの限界
 3.裁判員制度について

第二章 政教癒着と神のさばき
1. 王の異教との癒着−−ヤロブアム王−−(1列王記12:25−33)  
2. 王の真の神礼拝への侵害と神のさばき−−ウジヤ王−−(2歴代26章)
3. 政教癒着の霊的背景(黙示録13章)
4. 「市民宗教」について
(1) J.J.ルソーの「市民宗教」
(2) 米国の「見えざる国教」
 5.我が国の近代史への適用
  (1)我が国の戦前・戦時中の宗教政策
(2)戦後の政教分離問題の動き
 
第三章 教会の連帯的責任
 1.現代の教会が過去の教会と連帯的責任意識を持つことをめぐる逆説
  (マタイ23:29−36)
 2.神の御前における連帯責任の事実と根拠−−第二戒を中心に−−
  (ローマ5:12−19、出エジプト20:5、6)
(1)神の目の前での罪の連帯性は事実である
(2)第二戒にいう罪は偶像礼拝問題である
(3)罪の模倣性・遺伝性について
 3.連帯的責任の誤答と正答
(1)連帯的責任についての宿命論的誤答(エゼキエル18章)
(2)連帯的責任についての正答(ダニエル9:5−9)

第四章 聖書的自由と啓蒙主義的自由
 1.善悪の知識の木と自由の問題(創世記2:8−3:24)
 2.自由教会主義者の求めた自由
 3.啓蒙主義者の求めた自由
 4.自由実現のための二つの近代国家概念

終章 キリスト者と教会の任務
 1.キリスト者としての基本的態度
 2.祭司として
 3.預言者として
 4.王として