苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

荊冠の王

マタイ27:11−31
マルコ10:42−45

2012年4月1日 受難週主日 小海

「27:11さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 27:12しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。 27:13するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。 27:14しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。 27:15さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。 27:16ときに、バラバという評判の囚人がいた。 27:17それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。 27:18彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。 27:19また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。 27:20しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。 27:21総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。 27:22ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。 27:23しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。 27:24ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。 27:25すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。 27:26そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
27:27それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。 27:28そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、 27:29また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 27:30また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。 27:31こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。」
                  マタイ27:11−31



「10:42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 10:43しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 10:44あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 10:45人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。マルコ10:42−45
(口語訳聖書)

序 ここにはローマ総督ピラトと、王なるイエス・キリストが対照的に描かれています。ピラトはローマ皇帝から全権を受けた総督としてこの国の最高権力者でした。一方、イエスさまは父なる神から命を受けて地上に来られて、私たちを罪と死から救い出してくださる王なのです。


1. ピラト・・・この世の王

 ピラトは今、裁きの座についています。当時、イスラエルローマ帝国の属州という立場でした。ローマは、版図に収めたそれぞれの国にある程度の自治を許していましたので、イスラエルにもサンヒドリンと呼ばれる最高会議はありました。けれどもサンヒドリンは、人を死刑にするという重大な判決を下す権限はなかったので、もしサンヒドリンが死刑の判決しかないと考えた場合は、その被告人を総督ピラトのもとに連れてこなければなりませんでした。そういうわけでピラトこそ、イスラエルにおける最高権力者であり、最高裁長官であったわけです。
 裁判においてもっとも大切な理念は、公正であるということです。裁判官は自分の感情や自分の損得を感情には入れず、あくまでも法に照らして公正にさばきを行わなければなりません。
 では、ピラトは裁判官としての働きをまともにしたでしょうか。彼はイエスの行動について調査をし、その結果、イエス様はローマの法律に照らして、罪とされることは一つもないことに気づきました。ですから、まず祭りの習慣にかこつけてバラバとイエスを並べてイエスを無罪放免にしようと試みました。そして、イエスを十字架につけろという声があがると、23節「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と言っています。ピラトは、イエスが無罪であって、ユダヤ人の宗教的指導者たちがイエスに対するねたみのゆえに、イエスを罠に陥れたのだということをはっきりと認識していたのです。
 けれども、結局のところ、イエスの死刑判決をくだして、ユダヤ人たちの手に引き渡してしまうのです。ピラトという人物は、もともとローマ総督として、ユダヤ人たちを抑えつけるために、ガリラヤ人の血をいけにえに混ぜるといった残虐非道で神を畏れぬことも行なっていました。しかし、恐怖で人を支配しようとする人というものは、自分以上の力をもった相手には恐怖を感じて、しっぽを振るものです。具体的には、たとえばピラトはイエスは無罪であると知りながらユダヤ人へのサービスとして、イエスをローマのあの残虐な鞭打ちの刑にしています。ここにピラトの不公正さが露わにされています。
 そうしてピラトは暴動を起こることを恐れました。暴動が起これば、総督としての責任問題となって、自分の経歴に傷がつき、出世の妨げとなってしまうからでした。彼にとって大事なことは、裁判において正義が貫徹されることではなく、保身と出世がピラトにとっての最重要事でした。
 さらに、ピラトは皆の前で水を持ってこさせて、自分の手を洗って見せました。イエスの裁判にかんして、自分は何の責任もないぞと宣言したのです。文字通り無責任です。責任がないわけはありません。ユダヤのサンヒドリンが自らの権威でもっては人を死刑にできないからこそ、ローマ総督に被告イエスを連れてきたのですから。彼はまぎれもなく当時のイスラエルの最高権力者でした、ピラトは、尊大な振る舞い、残虐な行ないによって民を恐怖によって支配してきたのでした。しかし、その実、ピラトは臆病で、自分よりもより大きな民衆の力が彼に押し迫ると、彼らに尻尾をふるのでした。
「10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」とイエス様はおっしゃいましたが、ピラトはまさにそういう権力者でした。

 こうしたこの世の権力者たちのありかた、裁判官や検察官のありかたは、しかし遠い古代イスラエルのことにとどまりません。今日の日本の世間の法廷も、残念ながら、似たような実態なのだということを、私たちは近年知らされてがっかりしています。裁判官たちは、ほかの官僚と同じように保身と出世に有利なように判決を出す傾向があります。検察官たちは、検察組織の利権が守られこれを保つために有利なように、無理な取り調べをしたり、証拠の改ざんまで行っているということが指摘されて、私たちは愕然としました。しかし、驚くにはあたりません。イエス様がおっしゃったとおりのことなのです。「異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」



2 キリスト・・・真の王

 他方、キリストは王として、どのように振舞われたでしょう。キリストには三つの職務、預言者、祭司、王がありますが、今日は、王の職務についてです。
 まず、イエス様は、このピラトの法廷とゴルゴタの丘の処刑場に、王様として臨まれたのだということに着目しましょう。ピラトの法廷で、無実認定を受けながら、有罪判決を受けたイエス様は、庭に引き出され、ローマの兵士たちによって王としての装束をさせられた上で侮辱されるのです。彼らはイエスの着物をはぎとり、派手な緋色ないし紫色の衣を着せました。これは王者のローブを意味しています。またローマ兵は、荊で冠を編んで、イエスの頭にかぶらせました。イエス様の額からたらたらと血がながれました。黄金の冠は王としての栄光の象徴ですが、荊は呪いの象徴です。 そして、もう一つは葦の棒の王の杖です。王は民を導く羊飼いなので、羊飼いが持つような頑丈で立派な杖をもつことになっていたのです。それに代えて、ローマへ兵たちはすぐにもぼきりと折れてしまうような葦の棒を王勺としたのでした。
 そうして、イエス様を殴りつけてひざまずいて、「ユダヤ人の王様、ばんざ」と言ってあざけったのです。
 しかし、ローマの兵士たちは知る由もありませんが、実際に、緋色・紫色のローブをまとい、荊の王冠をかぶり、葦の王杖を手にもって、まさにイエス様は王として、父なる神から賜った使命を果たそうとしていらしたのです。イエス様の王としての任務とはなんでしょうか。
「10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
 イエス様の王としての任務とは、罪人である私たちに仕え尽くすこと、そして、罪ある私たちの罪の贖いのために、ご自分のいのちを与えることにほかなりません。なんと、異邦人の権力者たちと異なっていることでしょうか。正反対と言ってもよいほどです。この世にあっては、下位の者が上位の者の犠牲になるのがあたりまえでしょう。戦のとき、王は安全圏にいて、兵士たちが最前線のもっとも危険なところにやられます。最前線でも、上官たちは安全なところにいて、兵士たちが最も危険なところで命を落として、上官たちを守るものです。(こうしたありさまは、原発事故でも見たとおりです。)
 しかし、王であるイエス様はちがいます。王であるイエス様は、へりくだって人となってこられ、最後にはあの十字架で辱めを受けて死ぬことによって、私たちを罪と滅びから救ってくださいました。これこそ、真の王の姿です。

3 私たちへの招き

 王であるキリストは私たちを二つの意味で招いていらっしゃいます。
 第一は、王であるキリストが成し遂げられた贖いを受けなさいというこ招きです。イエス様が、その命を捨てて勝ち取ってくださった罪と死の呪いに対する勝利を、私たちにも受け取りなさいということです。私たちは、自分の罪に勝つことができません。どんなに厳しい修行をして、善行を積んだとしても、私たちは自分の罪の根を滅ぼすことはできないのです。私たちは、心の思いにおいて、口から出すことばにおいて、そしてからだで行なう行動において、罪ある者です。イエス様を信じて、イエス様の御霊を受けてから、生き方、生きる方向は180度変わりましたけれど、それでも、少し油断すると悪魔の誘惑に遭い、これに負けてしまうような弱い者です。
だからこそ、神の御子キリストが人となって来てくださって、悪魔の誘惑に勝利し、十字架において、そして復活によって、罪と死を滅ぼしてくださいました。
 己の罪の現実と、自分ではその罪に勝つことができないという、どうしようもない罪に対する無力の事実を認めて、「イエス様、この私の罪のために十字架にかかってくださったことを感謝します。」と救いを受け取りましょう。

 王であるイエス様から私たちに向けられた第二の招きは、王であるキリストにしたがって、その足跡にならう真理の王としての生き方を、それぞれの置かれた持ち場立場ですることです。この世の権力者ピラトのようにではなく、キリストのような王としての生き方をするのです。ピラトのように、人を恐怖によって支配するような臆病な生き方ではなく愛によって人を生かす生き方。仕えられようとするのではなく、仕えることを喜びとする生き方です。
王とは自由な者です。物やお金や恐怖に強制されるのではなく、自発的に、神様への愛と感謝に満ちて、神と人とに仕える生き方をするのです。それが王者らしい生き方です。私たちは仕える心を持った、つまり僕の心をもった自由な王として生きることが許されています。
「10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
ゴルゴタの丘に向かって行かれた荊の冠をかぶった王イエス・キリスト様。その足跡にならって生きていくのです。