苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン10月5日  呪いを祝福に

ネヘミヤ記13章2節
新改訳
それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた。

 ネヘミヤ記で回想されているのは、民数記22,23章の記事。モアブの指導者バラクは侵攻してくるイスラエルの民を恐れて、変な預言者バラムに彼らを呪うことを依頼する。預言者バラムはどれほど報酬がもらえるかと浮き浮きしながら出かけるが、道に抜き身の剣を引っさげた主の御使いが立ちふさがっている。だがカネに目のくらんだ預言者には見えない。ロバにさえ見えたのに。ロバに叱られ、ようやく目が見えるようになった預言者は、主から警告を受けてバラクのもとに出かけて行く。そして、依頼されたのと反対に、イスラエルを祝福してしまった。
 以上が、神がのろいを祝福に変えたという出来事。
 聖書中には、そして神が摂理なさる歴史上には、呪いが祝福に変えられたという出来事が時折見られる。ヤコブの息子レビの潔癖さは激しい怒り・暴虐として現れた。彼の怒りは父ヤコブにのろわれ、彼の子孫には約束の地での取り分はないとされた(創世記49:5−7)。だが、その相続地のないことは後に、レビ族の相続地は主の宮に仕えること、主ご自身であるという祝福に変えられた。
 自分の生来の欠陥、人生途上の取り返しのつかない過ちに、時に心暗くなることがある。だが、それも主の御手にゆだねよう。

 ・・・さらに、「呪いを祝福に」ということを思いめぐらせば、主イエスの十字架の出来事。
「彼のうち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:6)