苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神からの贈り物、レビ人

民数18:6
今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエル人の中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らを【主】にささげられたあなたがたへの贈り物とする。

 16章コラの反乱に対して神罰が下り、イスラエルの民は神の怒りに恐ろしい経験をした。その後、神はレビ人をとって神の幕屋に特に仕える係りとした。イスラエルの民を代表して聖なる神に仕えるためである。これまで聖書を幾度となく通読してきたが、レビ人たちが、神から民に対する贈り物であるという表現があることに今朝初めて気がついた。
 ペンテコステ聖霊がすべての聖徒に降ったこと、また、1ペテロ2章の理解から、プロテスタントでは新約の時代、信徒皆祭司主義ということをいう。だが、それでもエペソ4:11にあるように務めとしてみことばにかかわる教職というものが立てられる。みことばの教師は、格別厳しいさばきを受けなければならないとヤコブ書も教えている。福音書において、主イエスは伝道者たちを特にご自分の小さな兄弟たちと呼ばれた。だから新約時代の教職はレビ人とのある程度の連続性があると解しうるというか、解さねばばならないのだろう。
 レビ人たちは、気が緩んで所作を間違えれば死ななければならないという恐るべき聖なる幕屋に絶えず仕え続けるという務めに召された。ここを読むと、いったい自分は牧師としてどれほどの緊張感をもって主にお仕えしてきたことだろうと思う。よくぞ殺されなかったものだ。主のあわれみによるというほかない。今朝、改めて、レビ人は神から神の民への贈り物と言われていることを思うと、到底それに価しない自分であったと反省すべきことだらけ。なお生かされたことを感謝し、悔い改めてやり直すほかない。