苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストに似た者へと

創世記1:26,27、ヨハネ福音書1:1−3、コロサイ書1:15−17
2011年12月4日 小海主日礼拝



   小海の千代里牧場。

創世記1:26,27
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。


ヨハネ福音書1:1−3、10
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。

コロサイ1:15−17
1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 1:17彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。


 今年はクリスマスに向かって、どのようにみことばに耳を傾けてゆこうかと祈り考えました。そうして、キリストと創造、キリストと人間の堕落、キリストと救いの約束、そしてクリスマスという流れてみことばを味わってゆきたいと思いいたりました。今回はキリストと人間の創造について。

1 永遠のキリスト

 「キリストと創造」というと、聖書を知る方の中にも「あれ?」と奇妙な感じを抱かれる方がいるかもしれません。イエス・キリストというお方はおよそ2000年前にイスラエルベツレヘムにお生まれになったかたではないか、それに対して、天地万物はそれよりもはるか昔に創造されたのではないかとお考えになるからでしょう。
 しかし、それは一面正しいのですが、よく考えると間違いです。イエス・キリストは、たしかに紀元前4年にベツレヘムというエルサレム郊外の町にマリヤからお生まれになったのは歴史の事実です。しかし、聖書はもうひとつのキリストにかんする大切な真理として、キリストと言うお方は、実は、赤ん坊としてベツレヘムにお生まれになるよりもずっと前から、存在しておられたのだと告げています。ヨハネ福音書1:10には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあります。また、イエス様はあるときユダヤ人たちと議論をしているときに、まるで昨日アブラハムに会って話をしてきたかのように、「ああ、アブラハムなら私の日を見ることを思って大いに喜んでいたよ。うん、彼は喜んでたよ。」と話されました。そうすると、ユダヤ人たちは、「あんたまだ50歳にもなっていないのに、2000年前にいた私たちのご先祖様アブラハムに会ったことがあるようなことをいうね。」とあきれ顔で言いました。すると、イエス様はなんと「耳をかっぽじって、聞きなさいよ。amen amen lego humin」と前置きしてから、「アブラハムが生まれるまえから、わたしはいるんだよ。」と答えられたのです。
 いいえ、それどころではありません。イエス様は、ご自分が万物の存在する前から存在していらっしゃるのだと、天の父への祈りのなかで語っていらっしゃいます。「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)地球も、太陽も、月も、あらゆる星々も存在する以前にキリストは存在しておられたのです。イエス様は、万物が創造される先に存在しておられたので、神学用語では「先在のキリスト」とか「受肉前のロゴス」などという言い方をします。 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は初めに神とともにおられた。」とヨハネ福音書冒頭に記されているのは、そういう意味なのです。

 イエス様は、父なる神様と、聖霊にある愛の交わりをもって、万物の創造される前から、永遠の昔から存在していらっしゃるのです。そのことがわかるならば、創世記第1章26節に出てくる不思議な表現の意味も、なるほどと理解できると思います。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように』。」
 不思議な表現というのは、ここに出てくる「われわれのかたちとして、われわれに似せて」ということばです。「神はおおせられた」というのは、三人称単数の表現なのですが、その三人称単数の唯一の神様が自分をさして「われわれ」とおっしゃるのです。それは、この唯一の神様が、父とキリスト(御子)と聖霊の神様、つまり三位一体の神様でいらっしゃるからにほかなりません。
古代教父ユスティノス(100?〜162?)は「ユダヤ人トリュフォンとの対話」62:1−4の中で、「この箇所によってわれわれは、神が数として区別された、理性をもつ何者かに向かって語っているということを確実に知る。」として、「むしろ、実際父から出、すべての被造物より先に生まれた方が彼とともにいたのであり、その彼に父が語りかけたのだ。それは御言葉がソロモンによって明らかにしたとおりである。つまり、まさに彼こそすべての被造物に先立つ根源であり、父から子として生まれた方であり、ソロモンが知恵と呼ぶ方である。」と言っています。また、同じく教父エイレナイオス(130−202)も「使徒たちの使信の説明」55で、創世記1:26を説明して、「父は不思議な助言者としての子に語りかけているのである。」と述べています。
 というわけで、イエス様は、人の赤ちゃんとしてベツレヘムに生まれる前、いや万物が創造される前から、存在していらっしゃるお方なのです。

2.キリストに似た者へと

 次に、人がもともとどのようなものとして、また、どのような者を目指して造られたのかを創世記に見てみましょう。
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちにおいて(ベ・ツェレム・ヌ)、われわれに似せて(キ・デムト・ヌ)。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』
神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて(ベ・ツエレム・エロヒム)彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(私訳 「べ」を「〜において」と訳した)

 人間とはとても不思議な生き物です。古代から哲学者たちは、人間というのは何者なんだろうと問いかけてきました。アリストテレスは人間は社会的動物だといい、啓蒙主義時代のフランス人ド・ラ・メトリは人間は一種の機械であるといいました。進化論を信奉する人たちは人間はもっとも進化したサル、万物の霊長だといいます。また、現代では、人間というのは遺伝子の束であるなどという人もいます。
 人間のどういうところが不思議かといえば、肉体としてみれば、サルかカエルのような姿をしていて、有限で時間の中にあるわけですが、その心の中には時間の中だけでは決して満足できない、永遠への憧れというのか、無限のこと・絶対のことを考えたり、生きる意味を考えたり、神様のことを思ったりするそういう心の作用があるということです。
 また、人間はほかの生き物とはちがって、自然のなかに生かされていながら、まるで自然の外側にいるものであるかのように、自然にたいして働きかけて、自然界にもともと存在しないようなものも作り出すことができます。つまり、人間には創造力というものがあります。
 なぜ人間は、有限な物質を材料としながら無限のことを考えるのでしょう?なぜ人間は時間の中にいながら永遠を思うのでしょう?なぜ人間は、自然界の中にいながら自然界にないものを作り出すことができるのでしょうか? 
聖書は人間はなんであるかという問に対して、「人間は神のかたちにおいて、造られた」という説明をしています。パウロなどが使っていた七十人訳ギリシャ語翻訳聖書では、「神のかたちにしたがって」となっています。ウルガタでは「神のかたちに向けて」とあります。これも含蓄ある訳で、人間は、神のかたちにおいて造られたのだけれど、完成したものとして造られたわけではなく、真に神のかたちらしく成長していく者として造られたというわけです。
 では、「神のかたち」とは何を意味するかといえば、コロサイ書1章15節は「御子は見えない神のかたちである」とあるとおり、御子イエス様のことです。つまり、人はキリストに似た者になるようにと造られたのだというのです。このキリストについて、ヨハネ福音書は、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(1:3)というように、キリストは万物の創造主なのです。
 コロサイ書も「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」と言っています。
キリストが永遠から永遠にいますお方であるので、キリストに似た者として造られた人間もまた、有限でありながら永遠にあこがれるのです。キリストが無から万物を造られた創造主であるので、御子に似せて造られた人間もまた神様にいただいた材料を用いて創造的なことをすることができるわけです。イエス様は永遠の御方ですが、イエス様に似せて造られた私たち人間は永遠に憧れをもつ時間的な存在、イエス様は無から万物を創造なさる御方ですが、イエス様に似せて造られた私たちは材料を用いて創造的な働きをすることができる存在なのですね。
 私は、昔、少し哲学という学問をかじったことがあるのですが、学べば学ぶほど聖書が教えている人間観は、どんな偉い哲学者の考えた人間観よりも、現実の人間の姿を正確に映し出しています。まあ、人間をおつくりになった神様のことばが聖書ですから、当たり前と言えば当たり前なのですが。
 それにしても、もともと人間がキリスト様に似た者となるように造っていただいたとは、なんという光栄なことでしょうか。あの、愛と聖さに満ちたキリスト様に似た者となるように人間はもともと造られているのです。だから、イエス・キリストを信じて救われた私たちは、キリストの似姿の完成をめざして歩んで行きます。もしそうでなければ、私たちがキリストに似た者とされていくことは、人間でなくなってしまうことを意味することになってしまいます。実際には、キリストに似せられてゆくことは、私たちが本来の人間性を回復し完成してゆくことを意味しています。

3.自己認識と生き方

 人間とは何者なのか、自分とは何者なのか、ということを認識することはとてもたいせつなことなのです。それは、その認識によってその人の生き方、他の人への接し方が相当変わるからです。人間はちっと頭のいいチンパンジーにすぎないと思っているひとは、自分をも他人をもチンパンジーを扱うように扱うでしょうし、自分をも他人をもロボットだと思っている人は自分をも人をもロボットのように扱うでしょう。恐ろしいことですが、実際、そんなふうに子どもたちを扱っている人々がいるそうです。子どもたちを買って来て、その内臓を金持ちの子どもに移植する医者に売りつけているといいます。まことの神様を見失ったときから、人は自分自身の価値を見失い、他人の価値をも見失ってしまいました。
 でも、それは他人事とはいえないのではないでしょうか?私たちも、どれくらい自分自身と他人が、もともとキリストに似た者として、キリストを目指すものとして造られたことゆえの尊厳があるということを意識して生活しているでしょうか。もし、ほんとうにそういう意識を常に持っていたら、相手が子どもであれ、どういう立場の人であれ、大切に尊敬をもって接することができるのでしょうが、私たちはそのもっとも大事なことを忘れて、うわべで人を見て、価値判断をしてしまうのではないでしょうか。経済力であるとか、学歴であるとか、社会的地位であるとか、そういう上っ面のことで人を判断してしまうことはないでしょうか。貧乏である、力がないということで見下げているのではないでしょうか。
 あの大金持ちは、門前のラザロという名のこじきをきたないゴミのようにしか見ず、飢え死にするに任せていました。けれども、神の目には神を信じるこじきの魂は、傲慢な金持ちのたましいよりも尊いものでしたから、こじきは救われてアブラハムの懐に行き、金持ちは燃えるゲヘナに落とされました。
 また、イエス様は、子どもを馬鹿にする弟子たちを厳しく戒められたことがありました。「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」(マタイ18:4−6)
 神は仰せられました。「さあ人を造ろう。われわれのかたちにおいて、われわれに似せて。」「われわれのかたち」とはキリストのことです。だから人はひとりひとりがキリストに似た尊い存在です。また、さらに愛ときよさに満ちたキリストに似た者にむかって成長し成熟していくように期待されています。