苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

御子の創造における仲保者性について

 牧田吉和先生が、クリスチャン新聞に、『新・神を愛するための神学講座』の書評を書いてくださいました。牧田吉和先生は紹介するまでもないかもしれませんが、現在、四国にある改革派宿毛教会牧師で、長く元神戸改革派神学校校長を務められました。先生は著名な神学者であられ、かつ、伝道者・牧会者でいらっしゃいます。

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  先生の励ましのお言葉を心から感謝します。牧田先生は一昨年、北海道聖書学院に集中講義の講師としておいでいただき、とても楽しく有意義なお交わりをいただきました。ここでは、上記のリンク先の書評で「慎重でありたい」と疑問を呈してくださった「仲保者」部分について、ここで応答・説明しておきたいと思います。

 特に注目すべきことは教父に学びつつ「『神のかたち』は御子である」という主張を掲げることである(214頁以下、304頁以下)。その際、「御子」は神と人との創造の仲保者と理解される。しかし、この主張の意図は理解できるが(155頁)、議論されるべき問題である。「仲保」の概念は相互の対立を前提としている。創造論的意味において神と被造物の間に対立はなく、「仲保」の概念は成立しない。歴史的には議論のある問題であるが、個人的には誤解を避ける意味でも慎重でありたいと思う。

 まず私が本書でどうしても紹介したいと思って書いたことを、きちんと捉えてくださったことを感謝したいと思います。私は教会に仕える牧師ですから持論を述べることは務めとしていませんが、この教えは古代教父の聖書理解であり、かつ、今日の教会のために有益であると思って紹介しました。その内容は、<アウグスティヌス以来西方教会の伝統では、御子の仲保者性は救済論的な意味でのみ教えられて来たが、御子の救済論的仲保者性の前提には、御子の創造論的仲保者性がある>ということです。少し説明します。

 御子が救いにおいて仲立ちの役割を果たされたことについては、例えば、テモテの手紙第一2章5節、6節に書かれています。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。」アウグスティヌス以来、西方教会カトリックプロテスタント)は御子の仲保者性についてはこの点だけを教えてきました。

 しかし、アウグスティヌス以前、ギリシャ教父たち(オリゲネス、エイレナイオス、アタナシオスたち)は、<御子は創造において、超越者である御父と 被造世界との仲立ちの役割を果たされた>ことをも聖書から読み取って教えていました。御父は被造物が見ることも近づくこともできない超越者で、御子が御父の計画にしたがって被造物の創造を実行されたという意味で、そして、人は神のかたちである御子(コロサイ1:15、創世記1:26)をモデルとして創造されたという意味で、父と被造物との仲立ちを果たされたからこそ、人間が堕落した時に、救いのための仲介者となられたという理解です。

 御子が創造において、被造物に関わった実行者であったことについての聖書のことばたとえば、ヨハネ福音書冒頭とコロサイ書1章です。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(ヨハネ1:1‐3)

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)

 また、エイレナイオスを読むと、創世記2章、3章で「園を歩き回られる主の声」は御子であるという理解をしています。御子の、無限の神と有限な被造物の仲立ち的役割から推論した解釈です。御子は創造論的であるだけでなく、啓示においても仲立ちの役割を果たされるのです。それは新約聖書でさらに明瞭にされています。「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 牧田先生は「『仲保』の概念は相互の対立を前提としている。創造論的意味において神と被造物の間に対立はなく、『仲保』の概念は成立しない。」と指摘してくださいました。確かに西方教会の伝統においては、「仲保」の概念は先に述べた通り、救済論的な意味で用いられてきたので、<聖なる審判者なる神>と<神に敵対する罪人たち>という相互の対立を前提とした概念だということなのだと思います。しかし、倫理の次元以前に存在の次元において、御子は、無限の神と有限な被造物という異質なる両者の仲立ちをするお方なのです。それを表現するには「仲保」という用語が西方教会の伝統においては適切でないのかもしれませんが、意味を存在の次元まで拡張して理解したほうが聖書的に適切ではないかと思うのです。リチャードソンの『キリスト教神学事典』によれば、仲保者と訳されたことばは英語ではMediatorということばで、「超越的世界と人間の世界とを仲介する存在」と最初に説明されています。そこには必ずしも両世界の「対立」が含まれておらず、むしろ両世界の「異質性」が意図されていると思います。「仲保」という訳語がピンと来ないとすれば、「仲介」ではいかがでしょう。無限の神と有限な被造物の間に立つ働きを総合的に表現する的確な用語がほかにあればよいのですが。

 私は、選び、創造、啓示、救済、審判において、御子が神と被造物の間に立つ務めを果たして来られたことを伝えたいと思いました。この認識は伝道牧会の現場で、旧新約聖書を一貫してキリストを伝える上で、有益であるからです。