苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神は人となった

ヨハネ福音書1:14−18


1 受肉

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


 新約聖書を読んだ人々が、つまづきを感じるのは、イエス様の教えではなくて、イエス様の数々のようです。「あなたの敵を愛しなさい」とか「心の貧しい者はさいわいです」といった言葉には理解や感動を示す人たちが、「どうして新約聖書には奇跡などという変なことが書かれているんですか?」というふうに言うことがあります。イエス様が水の上を歩いたとか、5000人以上の人々に5つのパンと二匹の魚を分けてやったとか、重病人をたちどころに癒したとか、そういう奇跡を見て躓きを感じるわけです。そうした方たちは、イエス様を愛の道徳の教師にとどめておきたいのに、実際のイエス様はその枠をはみ出てているのです。
 けれども、イエス様が行われたさまざまの奇跡は、たったひとつの奇跡にかかっていることです。そのひとつの奇跡を理解できたら、ほかのすべてはおのずと納得できることです。その奇跡とは、神が人となられたという奇跡、つまり、受肉の奇跡です。
 ヨハネ福音書の冒頭に、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。はじめにこの方は神とともにおられた。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずに、できたものはひとつもない。」とあります。永遠のロゴス、神とともに永遠の愛の交わりにあったお方、神であるお方、また、万物を無から創造したお方が、人となってイエスとしてこの世界に来られたのです。そうしたら、そのお方が、お言葉で嵐を鎮めたり、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させたり、病をたちどころに癒したり、死者をよみがえらせたりできるのは当然のことです。逆に、権威あることばで無から万物をお造りになったお方が、この世に来られて嵐に向かって「黙れ静まれ」と叫んでも、嵐は相変わらずビュービュー吹きまくっていてたら矛盾でしょう。無からいのちを造りだした神であるお方が、死んでしまった友の墓に向かって「ラザロよ出てきなさい」と叫んでも、ラザロが死んだままだったなら、そのほうが奇妙でしょう。その程度の奇跡すらできない者が、この世界を無から創造し地球のありとあらゆる生き物を養うことができわけがないからです。
 聖書は、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」と宣言しているのです。ですから、このお方がご自分の望まれる不思議なわざを行うことがおできになったのは、ごく当たり前のことでした。


2 旧約から新約へ

(1)幕屋を張った
 実は、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」で「住まわれた」と訳されたギリシャ語は興味深いことに、スケーノオーつまり「幕屋を張った」という用語が用いられています。ふつうギリシャ語で「住む」というのは「ゾー」といいますが、ここではスケーノオー(幕屋を張る)が用いられています。旧約聖書出エジプト記の背景があります。
 紀元前1500年頃モーセがエジプトから200万人ほどのイスラエルの民を導き出しました。神様は彼らをまずシナイ半島の南の隅にあるホレブ山に導き、ここで十戒をはじめとする律法を与え、移動式の神殿である幕屋の作り方を教えます。幕屋というのは、神様がご自分の民のうちにともに住んでくださるということをオブジェクトレッスン的に教えるものであり、律法というのは、この神とともに生きていくための生活のガイドでした。
 モーセは神から啓示をうけた通りに、幕屋を造って行き、最後に幕屋のなかの神の臨在が現れる至聖所に垂れ幕をかけます。すると、会見の天幕に主の御栄光の雲が現れて、そのあまりの神々しさにモーセさえも入ることができませんでした。

「40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。」

ヨハネが、「ことばは人となって私たちの間に幕屋を張った」と書いたときには、ホレブ山における幕屋建設のことが意識されていました。イエス様の弟子であったヨハネは主イエスのご生涯を思い出しながら、目の当たりにした主イエスの栄光を振り返っています。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 「恵みとまこと」というのは、主の契約においてあらわされるすばらしいご性質です。恵みに満ちているということは、赦されるはずのない者をも赦してくださる神の憐みのご性質を表し、「まこと」とは主はその約束を必ず守ってくださるご真実を表していると理解されます。「この方は恵みとまことに満ちておられた」とは主の契約がここに完全に成就したということです。
 1500年前にホレブ山で主の栄光の雲が現れたときには、人々は、モーセさえもその栄光に近づくことすらできませんでした。ところが、神が人となってイエス様として来られた時はどうだったでしょう。ヨハネは、自分は食事の時にはイエス様の胸に頭をもたせ掛けて、心臓の音を聞くことができるほどに、あんなにも親しくイエス様と交流することが許されたことだなあと感動しているのです。神様の恵みとまことは、神の御子が人となられたことで成就したのです。


(2)恵みの上に恵みを

 さらに旧約に対する新約の関係が15節から17節で語られます。

1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 「恵み」とは、それを受けるに値しない者が神からいただく不当な祝福を意味しています。罪があるならば、罰を受けるのが当たり前なのに、赦されて神の愛を受けるのですから、不当な祝福なのです。旧約時代、モーセの時代においても、あらわされたのは恵みでした。イスラエルの民はエジプトの人々と同じようにまことの神を忘れてさまざまな偶像崇拝にふけるという罪を犯していました。それにもかかわらず、神様は彼らの先祖であるアブラハムに誓った誓いに対する真実のゆえに、イスラエルを思い出し救い出して、ご自分の民として、彼らのうちに住まわれるしるしとして幕屋を与えてくださいました。これが恵みでなくて、なんでしょうか。
 神様の恵みは、ひとり子イエス様を人としてこの世界にお遣わしくださったことに、さらに豊かにあらわされました。「恵みの上に恵み」です。それは少なくとも三つの意味で、はるかに大きな恵みです。
 第一に、イエス様は罪は犯しませんが、私たちと同じように人間としてさまざまな試練に会い、苦しみに会われたので私たちに同情してくださるお方であるからです。私たちは自分の弱さを抱えたまま、イエス様の前に出て、イエス様に相談すること祈ることができるのです。
 第二に、モーセの時代には罪の償いのために牛や羊のいけにえがささげられましたが、それらは本体を指し示す影のようなものでした。しかし、イエス様が人となって来られて私たち人間の代表としてご自分をいけにえとして十字架で父なる神にささげられたという事実は、本体です。旧約時代はいつかメシヤが来られて、神の前の罪が償ってくださるという約束において救われていたのですが、新約時代はすでに罪の償いはイエス様が成し遂げてくださったのです。
 第三に、旧約時代にはイスラエルに限られていた救いが、イエス様が来られて贖いの業を成就されてから、聖霊が注がれて世界にキリストの救いが拡大したことです。
 こういうわけで、新約の時代に生きる私たちは恵みの上にさらに恵みを受けました。


3 イエスにおいて神を見る

 ギリシャの哲学者たちは、この世界が太陽や星々がみごとに間違いなく営みを観察し、あるいは小さな花が見事な調和のうちに営まれている法則があることを観察し、あるいは数の世界には不思議な論理法則が存在していることを見て、この世界を成り立たせているロゴス(理法)が、確かに実在しているということに気づきました。けれども、彼らはそれが生きている人格であられることはわかりませんでした。「いまだかつて神を見た者はいな」かったのです。
 イスラエルの民は、旧約聖書によって、その創造主が生ける人格であるということも知らされていました。けれども、神はあまりにも偉大であまりにもきよくおそるべきお方であって、罪ある人間としては近づくことも許されないお方であるというふうに認識していました。ですから、神の御顔を見てしまったというごくわずかな人々は「ああ、私はもう死ぬ」とおののき叫びました。やはり「いまだかつて神を見た者はいない」ということです。
 しかし、二千年前、真の神のひとり子が、人となってこの世界に来てくださり、イエスと名乗られました。ですから、私たちはイエス様を通して、万物の創造主にして支配者であられる神がどのようなお方であるかということを、私たちは如実に知ることができるようになりました。それを、ヨハネは「神を見る」という大胆な表現をもって表しました。

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 私たちは、イエス様の教えを読み、イエス様の生き方と死と復活を見ることを通して、万物の創造主であり支配者である神様というお方がどのようなお方であられるかということを見ることができるようになったのです。これもまた、恵みの上に恵みを受けたということにほかなりません。

結び  私たちは土から造られたもろい器にすぎません。けれども、造り主である神は、そういう私たちをご自分の御子になぞらえて造って、この世に置いて生きる者としてくださいました。にもかかわらず、私たちは造り主に背を向けておりました。それなのに、神様は陶器師がするように私たちを打ち壊してしまうのではなく、かえって、ご自分の御子を人として送ってくださいました。そして、御子は私たちの背きの罪を、その身に背負って死んでくださり、よみがえってくださって、私たちを赦してくださいました。それほどまでに、私たちを愛してくださったのです。
 私たちは、人となって来られた神イエス様を見て、神様がどれほど愛と正義ときよさと知恵とに満ちたお方であるかを知ることができます。そして、イエス様を通して造り主である神との親しいいのちの交わりをすることができます。主に感謝をささげ、賛美をささげましょう。