『神を愛するための神学講座』という小さな本を、32歳のときにまとめたことがある。その前の一年間、当時、神学校で同級だった大樹先生が牧会していらした徳丸町キリスト教会での夕礼拝での月一度の教理説教をまとめたものに、多少加筆したものである。大樹先生が私の学びのためにと配慮してくださったのだと思う。
「神を愛するための神学」というのは、筆者の中に、神を愛さない単なる知的遊戯としての神学、あるいは神を愛さず人を傲慢に膨れ上がらせる神学を避けたいという思いがあったからである。パスカルはストア派やデカルトにその種の神知識を見ていて、「ああ、神を知ることと、神を愛することとの間にはなんと大きな隔たりがあることだろう。」と嘆いた。またイエス様に対してもっとも強烈に反発して殺意を燃やしたのは、聖書を知らぬ俗物のヘロデ党ではなく、むしろ聖書の専門家たちであった。
焦点は、神についての知識の多寡ではなく、神をどのように知っているかという態度の問題である。神が無限永遠普遍の霊であるという教理ならば、われわれよりもサタンのほうがよく知っている。よく知っていて神を憎んでいる。
イエス様が荒野で40日間の試みにあわれたことがあった。そのとき、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから。」とスラスラと旧約聖書詩篇91篇を引用して、イエスを誘惑した。これに対して、主イエスは、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」と申命記6章で応じている。
この論争について、ある聖書注解者は長々と悪魔の詩篇91篇の釈義がまちがっているのだと議論を展開している。ナンセンスである。悪魔とイエスの丁々発止のやり取りにおいて、そんな迂遠な聖書釈義の議論などまるで役に立たない。肝心なことは、聖書知識ではなく、聖書をどう読むかという態度なのだ。神を愛する目的で聖書を読むのか、それとも神への愛なしに聖書を読むのかという違いである。
神を愛するという姿勢をともなうときにのみ、その聖書解釈や神学の営みは正当性を持っている。なぜなら、聖書はそういう目的をもって記されたものであるからだ。
*『神を愛するための神学講座』第四版は下のURLにPDFで公開しています。
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