苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

みこころにかなう人々に

        Lk2:8-20
        2010年12月24日 イブ礼拝

「いと高きところには栄光が神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように」最初のクリスマスの夜、天で御使いたちの賛美の声が響きました。すばらしい賛美です。けれども、「みこころにかなう人々に」ということばには、少し不安にならないでしょうか。「では、この私はみこころにかなう人だろうか?」と。では、聖書でいう神様のみこころにかなう人々、神様からの平和と祝福を受ける人々とはどんな人々なのでしょうか。

1.神は羊飼いたち選ばれた

 さてここはベツレヘム郊外の野原。満天の星が降ってきそうな夜です。羊飼いたちが、焚き火をして羊飼いたちの夜番をしています。ベツレヘムの町は帰省ラッシュでにぎわっていますが、ここで聞こえるのは、羊の寝息と焚き火のパチパチいう音ばかりです。
当時、羊飼いというのは、社会のごく底辺に属する人々だったそうです。イスラエルでは宗教的指導者たちは、あらゆる労働を禁じる日としての安息日規定をことこまかく定めていました。彼らによれば水を汲むことは罪、家畜にえさをやることも罪とされましたから、安息日の朝、羊ややぎの世話をしてから会堂礼拝にかけつける羊飼いたちを見て、律法学者たちはため息をついて、「律法を知らない彼らは呪われている」と嘆き、アム・ハ・アレツつまり「地に属する民」と呼んだのです。羊飼いたちを、神様の祝福から最も遠い人たちがと軽蔑したのです。我らは天に属する民であり、彼ら羊飼いは地に属する民というわけです。
 ところが、不思議なことに神のみ子イエス様を最初に礼拝する人々として、神様がお選びになったのは、律法の専門家の立派な先生たちでなく、野辺の羊飼いたちだったのでした。

 さて、突然、主の栄光が羊飼いたちをめぐり照らしたので、彼らは目もくらんでおじ惑いました。当然のことです。罪ある人間としては神の栄光に触れるときには恐怖におののかないではいられなかったのです。
 紀元前8世紀の預言者イザヤはある日エルサレム神殿で主の臨在にふれ、天使の賛美を聞きます。「聖なる聖なる聖なる万軍の主。その栄光は全地に満つ。」すると、イザヤは叫びます。「ああ。私はもうだめだ。私は唇の汚れたもので、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから.」(イザヤ6章)
 主なる神様の聖なる栄光の前では、神様のみことばを伝える務めをもつイザヤさえも震え上がりました。まして当時の社会で「呪われている」と言われていた羊飼いたちとしては、どうして主の出現を恐れないでいられましょうか?


2.救い主は飼い葉桶のみどり子として
 
 ところが、恐れおののく羊飼いたちに向かって御使いは言いました。「恐れることはありません。私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどり子を見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
 羊飼いたちは恐怖におののいていたのですが、天使は「こわがるな」「すばらしい喜びの知らせなのだ」と言ってくれました。それは、待ち望まれた救い主キリスト誕生の知らせだからです。しかも、その救い主は飼葉桶に眠っている赤ん坊だというのです。たしかに飼葉桶に眠っている赤ん坊ならば恐れる必要はありません。
 しかも、救い主キリストは番兵たちが厳重に見張っている王様の宮殿の奥の間ではなく、風が吹けばブラブラとむしろ戸が揺れるような家畜小屋に来られたのです。それならば貧しい羊飼いたちが出かけてご挨拶に行っても、きっと入れてくれるでしょう。
 また救い主キリストは偉い律法学者先生や大祭司様の邸のなかの産屋に生まれたのでもありません。だから、身分ひくく、安息日もまともに守ることができないような立場の貧しい羊飼いたちでも、また学問のない彼らでも恐れずに訪れることができるでしょう。
 まことに神様の御子はまずしい羊飼いたちでも、安心してお訪ねすることができる姿で、またそのような場所に、来て下さったのでした。イエス様は神様の前にへりくだるすべての人たちを喜んで救うために来てくださったのです。神様の前にへりくだる人が「みこころにかなう人々」です。
 この教会堂は入り口をスロープにしてバリアフリーにしてあります。けれども、教会は敷居が高いと言われる方がいらっしゃいます。もちろん気持ちの上での敷居です。私の父は49歳の時、教会の門をくぐりましたが、そのとき「五十男がどの面下げて、教会に入れるか。」とずいぶん抵抗を感じたと言っていました。男のプライドという高い敷居でしょうか。幸い、それでも父は教会にはいって聖書の学びが始まって一年ほどたって洗礼準備を始めました。そのとき、父は私に電話してきて、「自分はもう少し生活が立派になってからでないと洗礼は受けられへんかな。」と言いました。私は「そやったら、何年たったら、神様の前で十分立派になれると思う?」と聞きました。しばらく沈黙して、父は、「そうやな。イエス様は罪人のために死んでくれたんやからな。おとうちゃん洗礼受ける。」と言って、クリスマスに洗礼を受けました。50才でした。その三年後、父は天に召されました。誰でも、へりくだってイエス様に助けてくださいと言えるなら、イエス様は歓迎してくださいます。

3.「みこころにかなう人々に平和が」

 さて、羊飼いたちが御使いの言葉に驚いていると、今度は天の軍勢が出現して、大空はあたかも昼のようになり、高らかに賛美の声が響きます。
「いと高きところに栄光が神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように。」
神の御子キリストが人としてこの世に来られたことによって、神の栄光が天に満ちたのです。神の栄光は、はるかかなたの天にあって、地に住む私たちとは縁のないものではありません。遠くにあってきらきら美しいけれど、私たちの具体的生活とはなんの関係もない星のきらめきようなものではありません。神の栄光というのは、「恵みの栄光」と呼ばれます(エペソ1:6)。私たちのために、尊いひとり子さえも惜しまなかった、その計り知れない愛の豊かさこそ神の栄光です。罪ある私たちを赦して救うために、あの十字架でいのちまでもお捨てになったイエス・キリストの愛の行動に現れた、神の愛の偉大さゆえに、神様の恵みの栄光がたたえられるのです。
「地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように」ということばにいう「平和」とは神との平和です。神のみ子イエス・キリストが地に人となって来られ、ついに十字架の死にまで従い、復活されたことによってもたらされた神と人との平和を意味しています。
神様が御子イエス様を地上に派遣されたのは、実に神との平和をもたらすためでした。人間は生まれながらには神との平和を持っていません。人間は聖なる神の怒りの下にあります(ローマ1:18)。では神様の怒りはどこに表されているかといえば、神を捨てた人間の悲惨な有様に現れています。それは第一に人は造り主である神様に仕えず、石で作った人間や動物の像を恐れて拝んでいる姿です。(ローマ1:21−24)
神の聖なる怒りの現われの第二は、本来愛し合い助け合うべき私たち人間が互いにけがしあい、憎み合い、罪を犯しあっている姿です。(ローマ1:28−32)
 人は、本来結びついているべき神に背を向けて以来、そのみじめな姿が神の怒りの啓示となっています。

 このようにたしかに神様は正しいお方です。しかし、それにもかかわらず神様は私たち人間を愛していてくださいます。親が親不孝な子どものことを怒りながらも、せつない思いでなんとか助けてやりたいと思うように、神様は私たちの罪を怒りながらも、なんとか助けてやりたいと思っていてくださいます。そこで、神様は御子を平和をもたらすために地上に送ってくださいました。御子は私たちをさばくためには来られませんでした。まったくの無防備の赤ん坊の姿で来られました。平和の使節としてこられたのです。御子は、やがて長じると、私たちを裁く代わりに、ご自分が十字架の上で父なる神の御怒りをその身に負ってくださいました。その身代わりの苦しみによって、私たちを神の聖なる怒りから救うためでした。

 「みこころにかなう人々」とはこの羊飼いたちのことでした。律法学者の偉い先生たちからは、「地に属する民アムハアレツ」と呼ばれましたが、神様の目から見ると彼ら羊飼いこそ「御心にかなった人々」です。今晩この聖書の話を聞いて、たしかに私も神様の前では罪があると認めて、私もイエス様の救いをいただきたいと、もしあなたが真実に願うならば、あなたこそ「みこころにかなう人」です。
 彼ら羊飼いは御使いから神のみ子イエス様の誕生のすばらしい知らせを聞くといいました。15節。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見てこよう。」そして急いでベツレヘムへと行き、あちらの家畜小屋、こちらの家畜小屋と町中くまなく捜しまわって、ついに飼葉桶に寝ているみどり児イエス様を見つけ、礼拝したのです。
 こうして、羊飼いたちは神様を賛美し、喜びにあふれて帰っていったのでした。最初、啓示の光を受けたときには恐怖でいっぱいだった彼らは、今は喜びにあふれてベツレヘムの荒野へと戻っていくのです。彼ら羊飼いこそ、神様が御子イエスの誕生をお祝いするためにお選びになった礼拝者、「みこころにかなう人々」でした。

 神の恵みは、「ごめんなさい。でも、イエス様ありがとう」と祈る砕かれた魂を持つ人々に注がれます。(マタイ福音書5章3節)