苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

体験と感情に注意

20:6そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、 20:7主はモーセに言われた、 20:8「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
  20:9モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。20:10モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。 20:11モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
  20:12そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。 20:13これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。    民数記20:10−13

 
 主はモーセとアロンに「岩に命じて」水を出させなさいとおっしゃったが、モーセはつえで「岩を二度打って」水を出した。このことについて、主は「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかった」とおっしゃった。そして、彼らは約束の地に入ることは許されなくなった。彼らの過ちは一見すると小さなことだが、実は、重大なことだった。

 なぜモーセとアロンはこのような過ちを犯したのだろう。ひとつには、今聞いている神のことばに聴くのでなく、過去の成功体験に頼ったということだろう。先にシナイの荒野で水がなくて困った時、主はモーセに岩を水で打てとお命じになり、その通りにすると、岩から大量の水が出て民は潤された(出エジプト17:6)。『神は岩に命じなさいとおっしゃるけれど、なにかの間違いだろう。あのときは岩を打って水が出たんだったな・・・。』おそらくモーセはそのように考えたのだろう。過去の体験は役に立つことがある。しかし、体験を神のことばに勝るものとしてはならない。日々新鮮に神のみこころに耳を傾けること。

 ひとつには、モーセもアロンも、例のごとく、「水がないぞ」と不平を鳴らすイスラエルの民に対していい加減辟易していて、感情的になってしまっていたからだろう。怒りと苛立ちがモーセたちの心を支配してしまったとき、神に対する敬虔なおそれが欠けてしまったのかもしれない。時々「聖なる怒り」などということばを心の中でつぶやいて、自分のかんしゃくを正当化してしまう誘惑がある。注意!