キリストにある救いを、ルター以来、キリストの十字架の犠牲のゆえに神の前に罪赦されることということが強調されて来た、その反動であろうか、他方で、キリストの贖罪が軽んじられて、救いとは神とともにあることのみ強調される傾向がある。だが、両者は密接不可分なことである。なぜなら、前者は神の民になる道を意味しており、後者は神の民として生きることを意味しているからである。
1.神の民の契約
「救い」は、<何から、何への救い>なのかを明らかにすることによって、その内実が明らかになる。病気から健康へ、貧窮から富裕へ、争いから平和へ、それぞれ「救い」と呼ばれる。
では、聖書がいう救いの主題はなにかといえば、<神なき悲惨から、神の民の契約に入れられること>である。これは旧新約を一貫する神の契約の主題「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と同義である。換言すれば、「インマヌエル(神ともにいます)」である。エデンとはインマヌエルなる場であり、失楽園とはインマヌエルの喪失である。アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約の主題はインマヌエルであった。
2.贖罪の必然
ところで、人が「神の民の契約」から転落し「神なき状態」のとなった原因は罪である。ゆえに、「救い」には贖罪が必須であるということが旧新約に一貫しているもう一つの主題である。旧約聖書には、レビ記に見るようにそれは贖罪のもろもろの動物犠牲として表現されており、その究極的表現はきたるべき神の僕メシヤが、自ら民の贖罪の犠牲となるということであった(イザヤ53章)。
3.贖罪と神の民の契約
新約聖書は<神なき悲惨から、神の民の契約に入れられる救い>を十字架の贖罪によって成就するお方としてイエス・キリストの到来を告げている。
福音書:マタイ伝は第一章で、イエスという名は「その民を罪から救ってくださるお方」という意味であり、別名は「インマヌエル(神われらとともにいます)」だと告げている。マルコ伝では、イエスが「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」に来たと告げている(10:45)。ルカ伝では福音は「罪の赦しを得させる悔い改め」と表現されている(24:47)。つまり、罪赦されて神の民の契約に入れることが、救いである。
パウロ文書においても、救いとは律法によって罪を自覚させられ、キリストの犠牲による贖いを根拠とし、信仰を手段として、神の前に義と見なされて神の民とされて、御子の御霊を受けて神の子ども(相続人)とされて神とともに生きることを意味している。神なき悲惨から救われ、キリストによる贖罪を信仰によって受けて、神の民・キリストとの共同相続人として生きることである。
ヨハネ文書も、ことばなる神は受肉して神の民とともに住むようになり(Jn1:18)、彼の犠牲によって、私たちは罪赦されて、神との交わりのうちに生きるようにされたことを告げている。
結び
キリストの十字架による贖罪と神の民としての契約は密接不可分である。キリストの贖罪なくして、神の民の契約には入れていただくことはできない。神の民の契約に入れていただ者は神の子ども、神の国の相続人、キリストとの共同相続人として、御父の期待を受けて生きる。