苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月19日  神の被造物であること

 ここ三日所用で家をあけておりました。

イザヤ29:16
ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。
陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった」と言い、
陶器が陶器師に、彼はわからずやだ」と言えようか。(新改訳)


あなたがたは転倒して考えている。
陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。
造られた物はそれを造った者について、
「彼はわたしを造らなかった」と言い、
形造られた物は形造った者について、
「彼は知恵がない」と言うことができようか。(口語訳)


なんぢらは曲れり いかで陶工をみて土塊のごとくおもふ可んや 造られし者おのれを作れるものをさして我をつくれるにあらずといふをえんや 形づくられたる器はかたちづくりし者をさして智慧なしといふを得んや (文語訳)



お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか、「彼には分別がない」と。(新共同訳)

 人は神の被造物であることのすばらしさ、被造物であることの限界をわきまえることがたいせつ。
 もうちょっと鼻が高かったら、もうちょっと足が長かったら、もうちょっと髪の毛がたくさんあったら、もうちょっとヘブル語ができる頭があったら、ちがう時代・ちがう国に生まれていたら、資産家の家に生まれていたら・・・と土の器は陶器師に文句言うことは無分別なこと。
 神の被造物としての自分。その事実のすばらしさ、その事実ゆえの自分の限界。このふたつのことをわきまえて生きたい。