苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

園を歩き回られる主

      創世記2:15−18、3:1−19
      2011年12月11日 アドベントⅢ小海キリスト教会礼拝説教

 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。創世記2:15−18

1. 文化命令と人間の分

 人は、「神のかたち」であるキリストに似る者として、そして、キリストのかたちの完成を目指して、造られました。主のかたちである人間に、主ご自身が任務をおあたえになりました。その任務とはなんだったのでしょうか。

(1)対被造物関係・・・仕える心をもつ支配者
「 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」(2:15)とあります。これは「文化命令」と呼ばれるものです。ここには、人間の被造物世界との本来的な関係が表現されています。文化命令でまず大事なことは、「神である主が人を取り、エデンの園に人を置」いてくださったという事実です。アダムが自分でエデンの園を作ったのではありません。創造主がこの園を用意して、人を置いたのです。また、アダムは園の所有者ではありません。園の所有者、主人は神様であって、アダムはその管理者なのですから、アダムの好き勝手にこの園を管理するのではなく、神のみこころにしたがって園を管理することが求められています。
 では、園の管理の内容はどういうことかというと、「耕させ、守らせた」とあります。ヘブル語でしもべのことをエベドといいますが、「耕す」ということばは同根のアバドという動詞です。「耕す」ということばは、「仕える、世話をする」と解してもよいかなと思えるわけです。イエス様はあるとき、弟子たちが自分たちのうちで誰が一番偉いかという議論をしていたときにおっしゃいました。
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10:42−45)
 イエス様はこの世の王のあり方と、神の国の王のありかたの決定的違いを述べられたのです。イエス様は王や支配者が必要ないとおっしゃるのではありません。たしかに彼らは社会秩序の維持のために立てられた人々です。しかし、その心構えが「仕える心」であることが大切です。同様に、人間は確かに創世記1章26節にあるように、被造物の支配者として立てられていますが、その支配とは「神の国の王」らしく仕える心をもってする支配であるべきです。ですから、ただ環境を破壊して金儲けをするという産業のあり方は、農業であれ工業であれ商業であれ、神様の御心に反することです。被造物を利用しつつ、被造物を守ることが必要なのです。ですから、「守らせた」とも言われているわけです。
 神様は人間に被造物(自然)に働きかけ、そこから収穫を得ること、食べ物やもろもろのものを得ることを許していてくださいます。少し前のところを見ると、金、ブドラフ、シマメノウなどといった地下資源についても示唆しているところを見れば、農業だけではなく工業も視野に入っています。 どのように被造物を利用するにしても、大事なことは、これらを守り環境を保全しつつこれを利用することです。

(2)対神関係・・・善悪の知識の木の意味:「人としての分をわきまえる」
 ところで、この文化命令にはひとつの制限が設けられていました。それが「善悪の知識の木」でした。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』
 聖書における「いのち」とは神との交わりを意味しています。逆に、「死」とは神との断絶を意味しています。「善悪の知識の木」から盗って食べるとき、神様と断絶してしまうと言われたのです。人間の善悪というのは、人間をお造りになった神様がお定めになるものであって、人間が勝手に決めてよいものではありません。善悪の知識の木から盗って食べてはいけないとされたのは、創造主こそが、この世界の善悪をお定めになる権威をもっていらっしゃることを意味します。
 たとえば、人間はなぜ親孝行すべきなのか?それは神様が「あなたの父母を敬え」と命じたからです。なぜ人は人を殺してはいけないのか?それは神様が「殺してはならない」とお命じになったからです。なぜ人は盗んではならないのか?それは神様が[盗んではならない]とお命じになったからです。こういうことは人間が自分の都合とか理屈でかってに決めたり、変えたりすることは許されていないのです。
 逆に言えば、この善悪の知識の木の実をとって食べるということは、人間が神様の主権を拒否すること、つまり、神への反逆を意味したわけです。それは、すなわち、死でした。人はキリストのかたちとして造られたのですが、そこからキリストに似た者として成長してゆくべきものでした。人としての分をわきまえる「慎み」をもって、神に服従して文化命令を果たして生きるところに、本来、キリストの似姿である人としての成熟と完成があるはずでした。

(3)対人関係・・・「人がひとりでいるのはよくない。」イエスの愛を模範として
 次に神様はおっしゃいました。「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」こうして神様は最初の人に妻をお与えになりました。ここに隣人関係が生じます。
 人間ということばは「人の間」と書きます。それは人というものは孤立して生きていけるものではなく、人の間にいて、人格的交流、助け合いの中でこそ生きているものであるからです。もともと神ご自身、父と御子キリストと聖霊の三位一体の愛の交わりの人格神でいらっしゃいますから、その神の似姿として造られている人間と言うものは、孤立していては生きていくことはできないのです。愛の人格的な交わりのなかにあってこそ、人は人らしく生きることができるものなのです。
 今年の流行語大賞のひとつは「絆」ということばだそうです。3月11日の地震があって、私たち日本人は人と人の絆というものがいかにたいせつであるのかということを少し思い出したように思います。「人はひとりでいるのはよくない」のです。友があり、家族があり、主にある兄弟姉妹とともに生きていくようにと、イエス様は計画していてくださるのです。イエス様はおっしゃいました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)本来キリストのかたちに造られ、キリストに似る者として成熟していくことを人生の目標としている私たちは、キリストの愛の行いを模範として生きていくのです。
 以上のように、人はまず神様との関係においては人間としての分をわきまえる「つつしみ」、隣人との関係においてはイエス様の愛を模範として生きること、被造物世界に対しては仕える心をもってこれを治めるようにとされていたのです。それこそ、御子イエス・キリストのかたちとして造られた人間にふさわしい、幸せな生き方であったのです。

2.へびの誘惑と罪

 ところが、ここに蛇が誘惑をしかけてきました。この蛇とは、ただの蛇ではなく、サタンが憑依したものでした。サタン(悪魔)は、本来的には神のしもべとして神の栄光をあらわすためにその務めをはたすべき者でしたが、与えられた自由意志を悪用して、自ら神になろうとして思い上がったために、堕落してしまった霊的な存在だったようです。サタンは自分自身が傲慢になって滅びの道に陥ったので、同じように人をも誘惑して傲慢と滅びの道に引き込もうとします。蛇はどのように人を誘惑し、人はどのような悲惨な目に陥ったでしょうか。

(1)対神関係・・・人としての「分」を越える
 蛇のねらいは、人を誘惑して、あの「善悪の知識の木」から食べさせるということでした。蛇は実にことば巧みに女に、あの禁断の木に注目させ、彼女のうちに「食べてみたいわ。食べても大丈夫かもしれない。」という欲望を起こさせます。その上で、蛇は女に言いました。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(3:4,5)
善悪の知識の木からとって食べないということは、人が神を畏れ、人としての分をわきまえて生きるという「つつしみ」を意味していました。逆に、善悪の知識の木からとって食べるということは、神を畏れず、いわば自分自身を神として、思い上がった生き方をすることを意味していたのです。これこそ、聖書のいうところの罪です。罪には、人殺し、泥棒、親不孝、虚言などいろいろなことがありますが、あらゆる罪の中の罪、あらゆる罪の根っことは、まことの神を神としないことです。かりにどんなに人間として一見、立派そうな生き方をしているとしても、真の神を神としていないならば、それは罪なのです。

(2)対人関係・・・孤立、隣人への恐怖
 アダムと妻が善悪の知識の木の実を食べたとき、どんなことが起こったでしょうか。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(3:7)とあります。彼らはありのままの自分を恥じるようになったのです。彼らは神様に背くまでは、お互いに恥ずかしいと思わなかったとありますが、神様に背いたとき、彼らは夫婦でありながらお互いに隠しごとを持つようになったのです。
 また、この出来事は自分の恥ずべき罪を意識したということとともに、対人関係において、本当には隣人を信頼することができなくなって、人を恐れ、人に敵意を抱くようになったことを意味しています。「弱みを見せたら、きっと付け入られるに違いない」という恐怖を、隣人に対していだくようになったのでした。
 そこで、彼らはいちじくの葉で腰の覆いを作りました。それは、夫婦がおたがいにだましあって、自分のありのままの姿を見せないということです。私たちは肩書きとか学歴とか家柄とか資産とか社会的地位とか、そういう上っ面のむなしいことでもって、自分を人よりも強く立派に見せようとするようにしがちです。そんな虚勢の張り合いをお互いにしなければならないような、そういう孤独のなかに人は置かれるようになってしまいました。 本来、神のかたち、キリストに似せて造られた人は、愛の三位一体の神様のうちに見られるような愛と信頼の交わりをするものであったのに、神様に背いてからは、お互い信用することができず、心開くこともできなくなり、孤立感を味わうようになってしまったのです。

(3)対被造物関係・・・被造物との不調和・敵対
 人は、神と隣人と被造物との関係のうちに置かれました。では、被造物との関係はどうなってしまったでしょう。このことは、創世記3章17−18節に記されています。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(3:17,18)
 人間の罪ゆえに土地はのろわれ、土地は人に敵対するようになって、農業をしても雑草がひどくはびこるようになってしまいました。土地は被造物を代表して言っているわけで、被造物全体が人間に敵対的になってしまったということです。野獣は人を襲い、キノコを食べれば時には毒があり、病原菌は人を苦しめ、大地は地震を起こし・・・というぐあいです。
 あらがう自然を支配するために、人間は文明の技術を発展させてきました。それが昂じて、今度は自然環境破壊を引き起こし、ついには原子力発電事故という大事故を引き起こしてして、海も山も川も空気も放射能で汚染されました。人間は、被造物との間に不調和を来たしています。

3 あなたはどこにいるのか?

 本来、神の御子キリストに似た者として造られながら、アダムにあって神に背を向けて以来、人間同士はお互いを恐れて虚勢を張り、あるいは、被造物との関係においても不調和を来たして惨めな状態に陥っています。
 善悪の知識の木の実を食べて、惨めな状態に陥ったアダムとその妻のところに、神の声が聞こえました。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。」(3:8)ああ、なんとも親しみ深い表現ですねえ。あたかも農夫たちの一日の働きぶりを夕方になって見に来た、畑の主のボアズを思い起こさせます。エイレナイオスは次のように注釈しています。「園がそのようにきれいで優れたものであったので、神の御言葉は定期的にその中を歩いていた。御言葉は巡り歩き、人と語り合うのを恒とした。これは将来起こるはずのこと、つまり御言葉がどのようにして将来人間の仲間となり、人と語り、人類のあいだに来て、人々に義を教えるようになるか、それを前もってかたどっていたのである。」(使徒たちの使信の説明12)つまり、「園を歩きまわられる神」とは、後に、人となってこの世界に生まれる御子イエスさまのことだと言っているのです。
「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことも、また見ることもできないかたです。」(1テモテ6:15,16)とありますが、この聖なる三位一体の第二の人格である御子、ことばなる神は、創造においても啓示においても救いにおいても、父と被造物の仲立ちをつとめとなさるお方なのです。ですから、エデンの園において神に背を向けてしまったアダムを求めて来られました。そして、終わりの日、人となって地上に来られたのです。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とヨハネ福音書冒頭にあるように。

 神の声は人に呼びかけました。人が神をさがしたのではありません。神が人を捜してくださっているのです。人が神を捜し求めるのが宗教であるとすれば、神が人を捜し求められるというこの事実が福音です。あなたが神を捜す前に、神があなたを捜して見出してくださったのです。

 神の声であるお方は「あなたはどこにいるのか?」と問われます。「あなたはどこにいるのか?」「あなたたちは」ではなくて、「あなたは」と問われたのです。ところがアダムは、「はい、わたしはここにおります」と答えないで、「女が悪い」といい、女は「へびが悪い」と言いました。それは誤った応答でした。主は「あなたはどこにいるのか?」と問うておられるのです。あの人はどうしているとは問うてはおられません。アダム以来、人はなにかうまくいかないことがあると、「あの人が悪い」「この人が悪い」「こんな風にした環境が悪い」「神様が悪い」と言い続けてきましたし、今も言い続けています。確かに、あの人も、この人も、この環境も悪いかもしれません。でも、御言葉は「あなたはどこにいるのか?」と呼びかけているのです。

 だから、もし今日御声を聞くならば、一人、主の前に立ちましょう。そうして、「はい、わたしはここにおります。この私が罪を犯しました。この私をゆるしてください。」と答えましょう。そこに、救いの始まり、新しい永遠のいのちの始まりがあります。