詩篇 147:11
主を恐れる者と
御恵みを待ち望む者とを【主】は好まれる。(新改訳)
主はおのれを恐れる者と
そのいつくしみを望む者とをよみせられる。(口語訳)
ヱホバはおのれを畏るるものと おのれの憐憫をのぞむものとを好したまふ(文語訳)
主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。(新共同訳 詩147:11)
御恵み、いつくしみ、憐憫と訳されるのはヘセド。「主をおそれる」のおそれるはヤレー。訳では「恐」と「畏」の二つの文字が使い分けられているが、この文脈では恐怖の恐よりも、畏怖の畏のほうがふさわしいだろう。ヤレーということば自体としては両方の意味がふくまれる。実際、両者は切り離せないように思う。恐れ、畏れということが、現代の日本人はわかりにくい時代の中に私たちはいるのだろう。
だが、主はご自身を畏れる者を好まれるのであるから、主をを畏れることを学ばねばならない。主をおそれることは知識のはじめである。永遠的な意味では要らぬ知識ばかりが増しくわわって、この要を欠いているということのないように。
主よ。あなたを恐れることを、畏れることを、学ばせてください。