苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月16日  神の思い

(イザヤ55:9)
文語訳
天の地よりたかきがごとく
わが道はなんぢらの道よりも高く
わが思はなんぢらの思よりもたかし


口語訳
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。


新改訳
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。


新共同訳
天が地を高く超えているように、
わたしの道は、あなたたちの道を、
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
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 新共同訳が面白い。「高い」でなく「高く超えている」というふうにわざわざ訳してある。恐らく、「高い」と「低い」では、「低い」のを徐々に挙げていけば「高い」に達するという誤解を避けるためであろう。神の道、神の思いは我々を超越しているのだということを強調したいのであろう。神の思いと人の思い、神の道と人の道の差は、量的差ではなく質的差である、と言いたいのだろう。
 だが、ここで預言者が言わんとしているのは抽象的な哲学的な話ではない。罪人が赦されるか亡びるかという実存的な問題である。文脈的には「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれをはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」に続くフレーズである。だから、ここで言いたいことは、悪者、不法者は、筋からいえば、正義の神の前に出れば赦されるはずがないのだが、主のあわれみは人間の常識を超えて豊かである。 思い出すのは、暴虐なニネベの町をもあわれんで赦してしまわれた神のこと。
 人間が軽々しくさばいてはいけない。さばくのは神である。