苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月17日  主を畏れて生きる

詩編25章12節
文語訳
ヱホバをおそるる者はたれなるか 之にそのえらぶべき道をしめしたまはん

口語訳
主を恐れる人はだれか。
主はその選ぶべき道をその人に教えられる。

新改訳
主を恐れる人は、だれか。
主はその人に選ぶべき道を教えられる。

新共同訳
主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
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 翻訳にはほとんど異同なし。ただ新共同訳は文部省の用字基準が変わって、「おそれるyare-」「畏れる」の字が使えるようになったので、この字を用いている。ヘブル語ではyareは、恐怖にも畏怖にも用いられることばであるそうで、神に対する心のありようもないまぜなのだと、学者に聞かされたことがあるけれども、やはり、今日のような文脈では「畏」の方が適切であると思う。
 「私の進むべき道を教えてください」とこれまで何度祈ってきたことだろう。その道があきらかにされるには、「主を畏れる」者となることが条件である。主に信頼し、自分の人生の主権を主におゆだねするときに、主が道を教えてくださる。
 朝起きて、主の前に出て、「今日の予定はこれこれです。よろしく。」というのでなく、白紙をお渡しして「今日の予定を書き込んでください。主よ。」と祈って生きていくこと。